G4 コピーライター、株式会社 ほぼ日 糸井重里 (撮影日:2025/09/11)

西武の広告を始める前、20代のころ小さな広告プロダクションにいたが、ここがつぶれてしまい、フリーであったのでメジャーな企業の広告を手掛けるチャンスはなかったが、今はないウェルジンというジーンズショップの広告がTCCの新人賞になり、先輩から関心を持たれ、当時事業部ごとに広告賞を競っていた松下電器から「賞をとれる広告」を求められ十文字美信さんや浅葉克己さんと知り合った。そんな中で恐らく田中一光氏から西武のテーマキャンペーンを浅葉さんと組んで作るという提案が出され、ベビースイミングの「じぶん、新発見。」が生まれた。ビジュアルショックが必要だと思い、浅葉さんが海外ロケで留守の間に、写真家の坂田栄一郎氏がベビースイミングを撮るというプランを密かに進めた。このコピーにはビジュアルが大切だった。西武の次の展開を予感させるものがほしかった。その時はベビースイミングと並行して、池袋店が世界一の面積になる時代でもあり、これを説明できる媒体も必要になり、池袋店をあたかも戦艦の断面図のように細密画で描いたB倍サイズのポスターも作った。これも一種のビジュアルショックだった。すべての売場のコピーは一人では無理なのでビックリハウスで元気な投稿者だった窪田遼氏にお願いした。そのころには次の年も年頭にテーマ広告を出すことが決まっていて、ニューヨークのブルーミングデールがエジプトをテーマに選び年間展開する事を西武が知り、西武美術館のエジプト展がある事も決まっていたので、西武も年間広告をエジプトテーマで展開すると本間滋氏や吉田健一氏から伝えられ、のびのびやるよう言われた。エジプトだけだと何かファッションになってしまうので、これを「不思議、大好き。」とした。理屈を超えた好奇心や無駄な親切や命がけでやることなど、論理を超えたものこそが百貨店にふさわしいと思って、これを頭においてプレゼンに臨んだ。これでエジプト以外も世界の七不思議を見に行けると浅葉さんは大変喜んだ。ピラミッドやストーンヘンジなど不思議という言葉とシンボリックな風景で、西武はこういう店だというテーマ広告を作った。その各論広告として具体的な家具などの商品も出していった。この1年間の広告で西武は伊勢丹等の競合に対して、ライバルたりうると見られるようになったと思う。その後著名なアートディレクターになった方も若いころ、わざわざ遠回りして、この広告の貼ってあった駅でこれを見ていたという。1980年12月上旬ピラミッドの前で撮影していた時、後から来た本間常務から発売されたばかりのニンテンドーゲームウォッチを見せられ、ジョン・レノンが死んだことを知らされた。そして明けて正月に、この広告が世に出た。そのころは凄い速度で百貨店の広告と並行してセゾングループの新聞10段の毎月の企業広告も作っていた。セゾングループは百貨店、GMS、専門店、不動産、レストラン、ヘリコプターなどから多彩な前衛アートなど文化活動まで行う多角化事業体で、あらゆる事業の広告を作った。毎月取上げるテーマの候補とそれぞれの特徴が百貨店販促の吉田氏や亀島氏から持ち込まれ、ミーティングで1つを選び、浅葉氏とロケハンしてビジュアルを浅葉氏がスケッチにまとめ、一晩でキャッチコピーと800字ほどある長いボディコピーを書いた。普通これは長すぎるが、読みたい人に向けたボディコピーなのでしっかり書いた。この長さに堤氏は特に何も言わなかったため、この長さに誰も異を唱えなかった。当時浅葉事務所に近い所にあった自宅の机で一晩で書き上げ、翌日の夜中にまだ湿ったままの写植が製版会社から浅葉事務所に届くと、デザイナーがそれをビジュアルに貼り込むのに茶々を入れたりして完成し入稿した。そしてすぐに新聞に掲載された。フリーのコピーライターとしては百貨店とセゾングループの2つの広告で常に仕事があってありがたかった。当時のセゾングループは、本当に多彩な事業を手掛けていて、その位意欲的にやらないと企業の意味がないとでもいう厳しさが堤清二氏にはあった。自分もそれで必ず新たな改革やアイディアがないとだめだという癖がついてしまった。自分はまだ30代だったが「ノーアイディア・ノーライフ」の堤氏がネクタイの人を叱りつける一方で、面白いアイディアにはすっと飛びつく様子はまるで授業であった。「おいしい生活。」は一つのピークであり、これはアイディアとコピーとキャスティングが全部揃ってないと駄目な企画であった。自分は「不思議、大好き。」がうけたことで、知らなかった世界の人たちとのつながりが増え、当時中央公論の社員だった村松友視さんからロラン・バルトなどフランス現代思想の話が振られ、バルトが「東京の中心は空洞である。」と語った話が面白くて、日本を旅する外国人が日本の面白さを見つける広告ができないかと思った。そこであまりメジャーな外国人だといかにも宣伝ぽくてつまらないので、映画監督でニューヨークローカルで渋好みのウディ・アレンが日本に来て、空海が掘った池を見て何か言うといった企画ができないかという野望を持った。ウディ・アレンのコーディネートをする日本人が、これは一種の社会メッセージの広告だというような説明で本人を口説いてくれた。堤氏も喜んだが、さすがに来日させるのは難しいということで、日本を思わせる小道具をニューヨークに持ち込みスタジオ撮影することになった。動画撮影の川崎徹さんはコピーの言葉に多くを負わせたほうが良いというアイディアを出し、自分ではコピーがデカいツラするのは嫌だったが、結局ウディ・アレンが筆で書き初めのような紙に「おいしい生活。」と日本語を書いて見せるという動画ができた。このころ堤さんとの関係は次第に近くなっていき、プレゼンテーション以外の時にもいろいろなポイントで無駄話などするようになった。堤さんが、自分が関係する九州の大学に呼ばれた際にも、一緒に来てほしいと言われ、多くの人の前で対談したが、終わると多くの人が堤さんを囲んであれこれ陳情が途切れない。ニューヨークに一緒に行ったときも多くのアーティストが彼を取り囲んで、自分の個展を見に来てくれと陳情している。こうして自分は30代にして経営者の意味と面倒くささが理解できたのは大きかった。コピーライターという仕事は一時ブームになり、今はあまり聞かなくなった。自分の仕事も「ほぼ日」になっているが、これは広告のほうが変化していて、昔のように紙や電波の単位では成果を測れなくなったからだろう。それまで面積や時間で換算できていた広告が変わった。今や店を作るのも広告だし、そこでやるイベントも広告だし、ネットで知らせるのも広告。世の中全部が広告になってしまった。一緒に食事するのも、企業経営もすでに広告かもしれない。評判とかブランドとかは本来の企業活動である生産と消費とは別なものだったはず。昔のコピーのテニオハは古典的な言葉遊びになってしまった。昔から自分は「コピーライターは何でもできる。」と言っていたが、その「何でもできる。」のほうが生き残った。代理店やスポンサーといった外の発注者がいなくなり、自分自身がクライアントになって自分で決裁できる「ほぼ日」に至った。だから自分は今もコピーライターとして自分の会社の広告を書いている。でも一方では、いまだに本の帯は恐らく世界で一番書いていると思う。西武の広告を書いてから半世紀たったが、堤さんを見て勉強したことは大きい。面白い学校にいたという気がする。西武セゾン文化を次世代につなげるということは大切。やらなければいけない事は今も同じだろう。仕事をしていない時間が豊かでないと、仕事も豊かにならない。それが当時の西武だった。西武の人とは年齢や立場の上下など気にせずに率直に言いあえた。当時のアシスタントの石井君に言われて気付いたが、自分は堤会長プレゼンの会議が長くなると、つい靴を脱いで椅子の上にしゃがんでスパスパたばこをふかしていたという。自分自身をひどいと思うが、のびのびと仕事をさせてもらえ、偉くなくする方法を学べた。役職で動く人はいなかった。平らな関係で色々な人と出会えた。経営者になると、決裁するよりも、つい有名人や肩書やブランドのある人を「仕入れて」しまうと楽なので、そういう人とだけ接するようになりがちだが、自分はそうはなりたくない。