F11 元パリ駐在部、商品開発部次長、営業企画室次長、インターコンチネンタルホテル上級副社長、ラコステジャパン社長、横浜グランドインターコンチネンタルホテル取締役 望月明 (撮影日:2025/08/25)

貿易を学び商社や百貨店志望だった望月明氏は1964年池袋店火災の翌年、渋谷店開業を控えた西武百貨店に入社した。堤店長率いる西武百貨店は池袋1店舗であった。最初は池袋店紳士ヤングカジュアル係に配属。2階にあったヤングマンコーナーはVANやJUNなどがある百貨店唯一の若者向売場で、当時高校生だった水野元社長も来ていた。さらにビートルズの影響でヒッピー、サイケデリック調の服も英国直輸入で展開しており、70年安保デモに行く学生には百貨店初のジーンズ売場も人気だった。タイガースなど人気アイドルの来店もあった。4年間のヤングカジュアルの経験を経てフランス語経験はなかったが当時の米谷氏からパリ駐在の辞令が出た。パリでは邦子役員の厳しい面接があるため、ベルリッツで猛訓練を受けた。パリ駐在は足立氏の次の小山部長の時で、保坂氏と一緒であった。当時は紳士服、スポーツ、子供服のバイイング業務の他、サンローランライセンス商品アプルーバルの仕事が多く、山陽商会のコート、樫山のドレス、シチズンの時計、ハンカチ、タオルなど毎週1~2チームの来日ライセンシーをサンローランに同行し連れていったり、送付資料を持って行ったりした。他にも歴史のなかった西武のすべての領域の売場には老舗商品より多くのヨーロッパブランドライセンス商品が競合店より多数あった。これによりライセンス料も西武には潤沢に入り、ブランド管理部の資金として、ブランド販促費に充てられていた。4年半のパリ駐在を経て望月氏は商品部に戻った。この頃の西武は多店舗展開時代で全国に西武店舗が続々開業。地域密着商品を求められ、北海道店舗のために寒冷地仕様の靴やコートを作った一方、中国のダウンやイタリアのシャツ、北欧各国のノルディックセーター、フィッシャーマンセーターなど伝統セーターを渡欧して輸入し、セーター市場など世界のセーター売場が話題になった。後79年に営業企画に移り、海外催事を多く手掛けた。タイではリゾート開発、香港ではデザイン商品開発や後に香港西武のロゴマークを作るアラン・チャン氏とネットワークができた。スペインでは24体もの甲冑を輸入したが、売切るのに苦労したり、王室ジュエラーのヤーネスを導入し、後にヤーネスジャパンも設立した。87年にはインターコンチネンタルホテル買収でニューヨークで24時間がかりで世界中の時差に合わせて世界140のホテルの取得と契約書の調印を行った。ホテル事業では横浜、竹芝など国内のインターコンチネンタルホテルを作る会社SCHを作り横浜インターコンチネンタルの開業まで従事した。堤氏は街の中心となるホテルを生み出す事にこだわった。後に香港西武準備室に行くが、開店前に帰国し、荒井氏や杉本氏のいるセゾンコーポレーションに異動し海外担当役員となり、各国の使節団等の対応にあたった。堤清二氏は渡仏の際に邦子役員から、「これからの美術は現代美術が中心になる」と指摘され、事実、池袋駅東口前ロータリーにある西武が寄贈したデルブリの男女像や日本発のパウル・クレー展など、清二氏に色々な面で影響を与えた邦子氏の役割が大きかったと思われる。邦子氏はカジノ買収トラブル等に巻き込まれた後、パリ駐在設立30周年、パリのル・グランドホテル開業130周年のパーティを盛大に行い、世界中から賓客を集めた。望月氏は後に11年間ラコステ・ジャパン社長としてパリとの往復を重ね、98年に邦子役員から当時不振だったジャン・ルイ・シェレルの再建にラコステの生産方式を活用できないかと相談を受け、打合せを行っていたが、翌日の会議を控えた日に邦子役員が急逝された。望月氏は現地で葬儀まで行うよう指示され、邦子役員のペール・ラシェーズ墓地での火葬、教会でのミサ、その後モンパルナス墓地でサルトルとボーボワールの墓のそばに分骨埋葬された。海外業務の多かった望月氏は、提携していたインドネシアのサリナ百貨店のジャカルタ本店再建計画立案のためインドネシアに行ったり、アラモアナSC内などハワイに7店舗展開していたマキナニー百貨店にも行ったが、暑い地方は装いが年中同じなため、売上が厳しかった。他に思い出すのは有楽町ゾーニング計画で6階のクリエイティブスペースの会長提案が難航し、堤会長が納得するクリエイティブなフロアのプランを三宅一生氏に相談し、イッセイの通常ラインと異なる、提案性優先でイッセイがインドのマハラジャ、アシャ・サラバイと開発したアシャ・バイMDSやイッセイのクリエイティブなラインだけのショップを出してくれ、多くのクリエイティブなデザイナーたちもついてきたので、堤清二氏は納得した。アシャではフロアにプールを作ったりと大掛かりな企画も展開した。インド展ではテーブルコーディネーターの田実碧氏とインドに出張。現地ローカル便が故障で無名の滑走路だけの地方空港に不時着し、手配されたホテルに宿泊したが明け方急に出発になったりもした。