光畑由佳氏は1987年、パルコプロモーション局からキャリアをスタートした。当時のパルコプロモーション局は、販売促進領域を担当するSP局とは別に、パルコ出版局と共同で文化イベントや渋谷店内のクリフォードギャラリーやパルコギャラリー等を担当していた。マネジャー以外のスタッフは全員女性だった。当時のクリフォードギャラリーは増田通二氏の趣味もあって、英国のアールヌーボーやアールデコの作品などを扱っていて、後のロゴスギャラリーにつながっていく。
光畑氏の入社時期は雇用機会均等法の初期であり、セゾングループ以外の女性総合職の募集企業は、サントリーやリクルート位であり、先輩女性はいずれも狭き門を突破した優秀な方々ばかりだった。当時のパルコのイメージを作っていたのは、エアブラシイラストで強くてスタイリッシュな女性を描き一世を風靡した山口はるみ氏であり、光畑氏はこのイメージへのあこがれが強かったという。さらにプロモーション局の美術企画部門を動かしていたのが全員女性であったため、女性である事への自信がついたという。
当時上野にあったスペース・ニキには何度か仕事で行っていたが、増田通二氏没後にはニキ美術館で自分の会社モーハウスのイベントを開催してもらい、増田氏のご子息である黒岩雅志氏に提案されてニキ・ド・サンファルの作品を描いたオリジナルTシャツを作ることもできた。今の若い世代にニキ・ド・サンファルがどのくらい認知されているかは分からないが、2015年に国立新美術館で開催されたニキ・ド・サンファル展には太古の女性像のようなふくよかでカラフルな立体像や絵画があふれていた。これは友人の出産を契機に女性の価値感に目覚めた後の作品であり、初期の作品はむしろ女性の辛さを描くダークなものだった。
増田氏のご退任もあって光畑氏は5年ほどの在職でパルコを辞め、短い間の出版社勤務を経て、結婚を契機につくば市に自分のコンセプトで建築家と一緒に家を建てることになり、建築と服作りを仕事にすることにした。1995年のブルータスの特集で初めてオーガニック建築という言葉がでてきて光畑氏のつくば市の家が紹介された。中庭にガラスブロックで外光の入るバスルームを設けたこの家はその後も色々な雑誌やテレビで100回位紹介された。
2人目の出産の後、光畑氏は子供を抱いて仕事でつくば市から東京に行った際、どうあやしても子供が泣き止まないのでやむを得ず電車の中で授乳をしないわけにいかなくなった。この経験により、乳児を連れた母親の外出の難しさを痛感した。光畑氏は自分が授乳することで子供を安心させることができる母乳育児は、出産と同様、自身の肯定だと感じた。今の時代の出産・育児の一般的な在り方だけでなく、そこにはオルタナティブな選択肢があるはずだと考えていた。例えば震災など災害の際の避難所における性被害は授乳室など女性が一人になる空間で起こりがちであり、女性が一人になる授乳室空間を作るより、多くの人の中で授乳ができるような、「授乳室を着る」ということはできないかと考えた。
そこで「授乳服」を作るために自身の会社モーハウスを作り、これがグッドデザイン賞を2度受け、ミッドタウンのイベントでは多くのお母さんたちがイベントとして多くの観客の前で赤ちゃんに授乳する授乳ショーも展開した。これで「仕事中の授乳」という働き方も発信したいと考えた。ニキ美術館の協力で作ったニキ・ド・サンファルのイラストのついたオリジナルTシャツは授乳服仕様で、国立新美術館のニキ展で販売された。自身は三児の母で、「お産とオッパイと建築が趣味」と言っているが、これはそれぞれのことに別のアプローチをしていきたいというメッセージでもある。
光畑氏の会社モーハウスはたった5千円で作った会社だったが、家賃100万円のR246青山通り沿いに採算度外視で出店した。働く女性の多くは子供を産めないか、産んでも1人で諦めてしまう事が多すぎる。だから多くの女性が働く都会のど真ん中でこの店をやることで多くの女性の意識を変えたいと考えたという。パルコはデヴェロッパーであったのと同時に情報発信業でもあった。そこには、今までなかったものを世に問うことは善であるという意識があった。だから家の建て方にも女性の働き方にも、今のやり方と異なる道があると考えた。これはビジネスというよりアクティビストのやりかたかもしれないが、堤清二氏も増田通二氏も金のためにビジネスを考えるビジネスマンというよりもむしろアクティビストだったのではないだろうかと思っていた。企業で出した利益の余禄で文化活動を行うメセナのような考え方とは異なるアプローチでの活動を自身も行っていった結果、日本側の代表としてAPECにも参加することになった。これで少しは社会に影響を与える事になったと思う。
少子高齢化と言いながら、それを解決する社会での働き方をもっと具体的に提示・行動したいと考え、それに賛同してくれたスタッフは今や累計で300人ほどになり、今までなら1人以上の出産は諦めていたというスタッフが3人も産んだという話も出てきた。今の時代は仕事と暮らしの両立は以前よりはしやすくなったというが、自分を含めてパルコの同期女性の多くはパルコらしい「別なやり方」を求めて、病院ではなく助産師の手で出産している。当時は、こういう本来的な意味でのサブカルチャー、アマチュアリズムが許された時代であった。今のように、規範が声高に語られる権威主義の真逆であった。今また「女性はこうあるべき・こうするべき」という「規範」というより「呪い」がどんどん増えてきているのを感じる。小さなチャレンジが沢山できたのが当時のパルコだった。またそうして良いという企業文化だった。今の若いお母さんは苦しんでいる。ガラスの天井というより、ガラスのプリズン(牢獄)の中に閉じ込められているように見える。自分の力で何とか壁を破らなくてはいけないと思っていた当時よりも、今の時代のほうが一層やりにくくなっていると思う。かつてのセゾンカルチャーでは「こんな選択肢もある」という提案を次々と行ってきたと思う。
余談だが、先日日曜美術館に出演されていた小池一子さんは既に80を超えたご高齢だが、光畑氏のつくばの自宅を見に来てくれたり、青森の美術館にご一緒したときは、近くにある「キリストの墓」の話をしたら、ぜひ見たいと仰られて、山登りまでされた。ご健康なだけでなく、当時の好奇心が全く衰えていない姿には驚いたという。
R246青山通り沿いにモーハウスの青山ショップを出店し、子連れ出勤し、授乳しながら働く新たな女性の働き方が話題になったころ、西武百貨店筑波店から、出店依頼が来た。西武のリクエストは「モーハウスワールドを作ってほしい、子連れ出勤も可能です。」という内容であり、日本初の百貨店内ショップ。しかも平場での子連れ出勤になったという。この経緯は光畑氏の著書『働くママが日本を救う!」にも書いてある。当時の百貨店でこのようなことは考えられず、子連れで働くことで、クレームがくるどころか、お客様から「さすが西武」との電話があったという。しかし残念ながら、このショップは、筑波西武の2017年の閉店で幕を下ろした。





