藤川正夫氏は当時割賦販売店の雄だった緑屋に1970年入社。この頃、緑屋は多店舗展開と電算センター投資に丸井台頭が重なり経営悪化、丸紅の経営参画を経て西武百貨店が経営参画。当時西武の坂倉社長は電算センターと顧客データの価値に目を付け、日信販に依存しない自前カード開発を目指し、顧客データ自前化のため、カード先進国アメリカでの一般人向けカード事情視察に藤川氏を渡米させ、月額定額払い方式のリボルバーカードを緑屋のノウハウで実践すべく、80年に緑屋を母体に西武クレジット(現クレディセゾン)を立上げた。旧緑屋社員は新会社の西武クレジット以外は西武百貨店と西友の多店舗展開要員に吸収された。藤川氏はこの頃から百貨店やI&S籍で百貨店以外も西友VMDや西洋フードオールドニュー等西武セゾングループ各社の新店、改装業務に従事。当時清二会長は鉄道役員も兼務していたため、西武園、西武球場、狭山湖スキー場まで提案を求められ休む暇もなかった。特に壊れかけた廃墟感を出した渋谷ロフトや全フロア初めて尽くしの有楽町西武や六本木WAVE等思い出深い。WAVEは脇田愛二郎氏提案の五線譜柄の床材を導入するが施工後に反るので木目プリント合板を初めて作り、それが今や家庭で一般化したり、天然石より安価でメンテナンスが楽な壁材としてガラス素材のネオパリエを開発し、池袋店TKビルに使用し、それが地下鉄ホーム等で一般化したり、有楽町用に省エネ効果の高い弁当箱型照明を作り、その後全国に普及したり、常に会長要求に応える西武の環境のイノベーションが世間に一般化していった。有楽町西武では操夫人の提案でトイレ内の椅子、温水洗面台、音消しの「おとひめ」開発まで行い、その後施設内トイレのスタンダードになった。さらにつかしんの街作りやつくば西武の掃除ロボット、搬送ロボットや弧を描くエスカレーター等まで作った。池袋店では建物面積3%緑化の基準達成のため壁にスプリンクラーを仕込み壁面緑化を始め、今ではあちこちで行われるようになった。2000年頃からホテル西洋にエルメスルームを作ったり、横浜と浜松町のインターコンチネンタルホテルも作った。六甲アイランドと大阪南港のレジャー施設は遊具エキスパート仙田満氏らの力も借り、ウォータースライダーや英国で買い付けたフライトシミュレーターをカナダのプリンスと南港レジャー施設に納入した。堤会長は画一化を嫌い、人それぞれに好きな場所があるのが街であり、文化なのだと語っていた。海外プロモーションもそんな素材を見つける一助であった。余談だが、東京タワー等観光地のライトアップは元は堤清二氏が石井幹子氏に提案したことから始まり、小樽の開発では地元の大黒屋との提携を目指し、大分県の一村一品運動の北海道版を目指して行われたり、寂れた港湾施設を観光地化する釧路フィッシャーマンズワーフ、ムーの開発、帯広地中海クラブ計画、函館金谷倉庫の観光用再開発など、当時の西武セゾングループは全国の観光資源の開発まで行った。
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元販売促進部装飾担当、総務部施設担当、I&S環境装飾他
藤川正夫
(撮影日:2025/07/15)