F6 元 欧州駐在部長、西武フランス社長、池袋店店長、サンローランリブゴーシュ社長、香港西武社長、リバティージャパン社長 保坂武雄 (撮影日:2025/08/12)

保坂武雄氏は1960年入社。池袋店婦人服イージーオーダー配属された。当時は既製服よりイージーオーダーや生地販売が大きかった。翌年、三島彰氏の調査室に異動し、63年に婦人服で規模拡大していた既製服に戻る。池袋店内にあった商品部婦人服を経て、邦子部長のパリ駐在で71年~75年まで勤務。75年から81年まで新設の商品開発室長で毎年2回の商品政策を提案。81年~86年に2度目のパリで欧州駐在部長、西武フランス社長に就任。この頃パリ駐在30周年記念式典がプレ・カトランで行われ、世界各国のデザイナーや日本の取引先がパリに一堂に会した。87年~90年は売上日本一の池袋店長を経験。マイケルジャクソンがお忍び来店するなど思い出深い。その後日本経済衰退期となりアパレル会社のエフ、サンローランリブゴーシュなどの社長として契約見直し交渉を行うも結局会社整理となった。その後香港西武社長となり、ここもディクソングループへの売却を行った。帰国しリバティージャパン社長に就任するも、つかしんの視察で重光オーナーが関心をもった㈱ロッテに乞われて顧問を96年~02年まで務め66歳で現役を退いた。堤清二氏はリスクを冒さない事をリスクと考え、日々チャレンジの連続だった。しかも仕事以外に日頃何をするかを常に問われ、さらに一日5分でも本を読めと言っていた。私物の本を日本に送るよう頼まれた時、分厚い経済原論の本に6種類のマーカーと書込みがあった。学生時代から6回も読んでいた。他に外国語スピードラーニングや現代詩の本もあった。CA曰く欧州便でずっと読書していた乗客は堤氏だけだという。堤会長のパリ出張の際には10数名の駐在員相手に印象派について2時間も語り続けた最後に、でも自分は現代美術の方が好きだがという結論だった。パウルクレーは西武美術館ができる前に池袋店で日本に初めて紹介しており、印象派も何回も展覧会をやった。邦子部長がアランドロンを招聘した時は米荘閣に宿泊し池袋店屋上までヘリコプターで来店した。自分の60年入社時にはエルメスもサンローランも西武は契約しており、ルイフェローが始まり、カルダンもラコステもテッドラピドスも皆邦子部長と親しかった。邦子部長との会話の中でソニアリキエルは「私以外、皆西武と契約している」と言われ、扱うようになった。自分の入社時初任給1万2千円の頃にエルメスの靴ベラは約8万円で契約ギャランティ400万円位だった。当時三越、大丸、松坂屋等パリに出店していたが、買付ブランドは各社1ブランド程度だった。当時はサンローランやケンゾーの人気がすごく、競合百貨店幹部にもショーチケットを頼まれた。西武が支援していたケンゾーのショーはまさに今のコレクションショーの形を作った魁だった。また堤会長の名代でオーストリアに行った際、地元名士婦人の紹介でクリムト展ができる事になり、西武美術館を1階に下しセゾン美術館となり、エゴンシーレやココシュカも持ってきてウイーン世紀末展となったが、同時にデメルやスワロフスキーやリーデルやリーデル、アウガルテン等オーストリア商品が一斉に日本上陸した。当時西武が扱っていたソレイアードと一緒にニューヨークに行った際、隣にいたフランスの女性首相に紹介されたので、来日と来店を要請し、これも実現した。西武はブランドやアートばかりでなくフランスの日常生活商品も多数買付け、催事「暮らしのヨーロッパ」を実施した。