木内勢津子氏は1970年に西武百貨店に入社。エタラジスト1期生であった。西武の募集要項を見て受験に行ってみたら、あらゆる専門学校や美大等の卒業女性が100人程来ていて、そこから20名だけが選ばれ渋谷西武で3カ月研修を受けた。当時はアパレルの中でも虫ピンで洋服をトルソーや壁面に貼り付けるピンワークがメインの仕事で、さらに服に芯地を入れて立体化して見せたりした。西武では当時の第一人者である後藤艶子先生から基本的テクニックを学んだ。そして本部に配属され、7月頃から関東と東海地区の開店を担当し八王子店や川崎店も担当した。当時始まった多店舗展開で出店した各店のウインドーから店内装飾全般までを担当し、毎週毎週各店への出張があった。しばらくしたら東海地区には別スタッフが入ったが出張が多かった。しかしエタラジストの女性は2年程で結婚などで辞めてしまう人も多かった。その後池袋店を5人程で担当しながら、関東店舗も継続して担当したが、これが力になった。71年には後藤艶子先生のヨーロッパツアーにも行き、西武のヨーロッパでのパワーを感じた。池袋の婦人服は特に、販促の季節ごとのフェアのテーマに合わせ、自分でパースを書いてエタラジストメンバーと打合せしてから、売場朝礼では販売メンバーに演出の趣旨を説明して、その演出テーマにふさわしい商品の調達をお願いした。南北に細長い池袋店の婦人服にはメインステージが途中に何カ所もあって大変だったが、ディスプレイ計画を立てる所から売場メンバーへの説得まで仕事全体の流れをつかんだ。もちろん繁忙期には売場応援に出て、百貨店の仕事の全体が勉強になった。
婦人服でスタートした仕事だったが、結局婦人服だけでなく子供服も紳士も家具も担当し、繁忙期の販売応援にも何度も行ったが、実際の販売経験は仕事の上で良い勉強になった。1974年に一旦西武を退職し、フリーランスとして1980年頃オープンした東京モード学園の仕事を始めた。ここにはディスプレイ学科があってスタイリスト学科もデザイン学科も皆売場での実際のディスプレイを学ぶ必要があり、このためのカリキュラムを作り、テキストを作り、授業内容を考え、15年位、実際に教育する仕事に従事した。テキストを書いていて原稿を書くこともできるようになり、ファッション販売から出た本も書いた。1985年頃から店舗システム協会事務局長の高山れい子さんがアメリカのVMD担当者を招聘して講演会を開催、それ以降高山さんのツアーに参加し自分もニューヨーク視察やギフトショーに毎年行くようになり、憧れだったティファニーのウインドーをやっている83歳のベテラン、ジーン・ムアさんにも会えた。彼は午後はブロードウェイの衣装や舞台セットもボランティアでやっていて、ブロードウェイの衣装やセットに感動した方がティファニーでも買い物してくれたという話を聞いた。またバーグドルフ・グッドマンの改装を手掛けたジェームス中岡さんご夫妻も取材できた。これらはギャップジャパンに書いた。ここの編集長は元東京モード学園の方で、ここに自分の連載編集ページ「VPブレーンズ」を持てた。1985年にはニューヨークのブルーミングデールスのジャパンフェアが大きな衝撃をあたえたのを取材で見に行った直後、たまたま渋谷西武に買い物に行ったとき、ニューヨークブルーミングデールのジャパンフェアを見てきたという話をしたら、今西武でもジャパンクリエイティブを計画しているので週に3日位来てくれないかという話になり、最初はディスプレイ指導だけだったが、本部にいた岡本さんや柵山さんからシード館やロフト館を頼まれこれ以降、担当することになった。
当時できたばかりのシード館はファッション・スペシャリティストアとして、ブランドを超えるブランドの館だった。現在は渋谷無印館になっているが、今の外観と変わっていないグレーのビルだった。エントランスの2階までの大きくくぼんだ部分には重量物を吊り下げられるようになっていて、例えばニューヨークから、キューバ系ニューヨークのアーティストのルーベン・トレド氏。奥様もファッションデザイナーのイザベラさん。シードのエントランスにはクリスマスリースの真ん中に赤い本物の自動車が吊り下げられた巨大なもの。これは二晩徹夜で完成した。この方もウインドーも店内も多くの作品を作った。奥様の手によりスチロールのボディにラッピングペーパーをはりつけたユニークなトルソーも登場した。大量のラッピングペーパーはお取引先様が協賛していいただけた。次はニューヨークの工業デザイナーのタッカー・ビーマイスター氏。7月の七夕イベントのスターマジックをやってもらった。これを手掛けたアトリエの根本さんという方の作品を最後にウインドーは93年になくなってしまった。次は同じく澤田泰廣さん東京博の時のものでウインドーと店内。このコンセプトは「私たちはビルに住んでいる」というものであり、四角い格子の中にティーシャツやコメなどを置いている。これは東京クリエイティブがスタートした年であり、ロフトでも東京博連動企画をやった。次もグラフィックデザイナーの澤田泰廣さんの作品。写真家サム・ショーのマリリン・モンロー写真集のイメージをコラージュしてある。この時はシード1階フロアではサム・ショー展覧会やっていた。次も真壁廉さんの「風の使者」という作品。シード館の種のイメージや海とポセイドンイメージなど。真壁さんは金属や鉄の加工が得意でシード館のクールなイメージとよく合っていた。真壁さんは企業タイアップキャンペーンで缶入りコーヒーで作ったコーヒー缶を持つ手のイメージオブジェもあった。これらも通産省での賞をとった。次の年のクリスマスもビールメーカーさんとのタイアップを行いロフトもシードエントランスも素晴らしかった。また木内氏は昔92年には西武の海外向けアニュアルレポートでシード館の紹介ということで写真で紹介された。
このころは1992年に人事研修会社ウイルの仕事でVMDマニュアルの本を作たことからこれを請負うようになり、1996年には売場づくりやビジュアル・プレゼンテーション講座のビデオ教材を作成した。主にファッションはシード館で撮影した。雑貨編はロフト館で撮影した。この教材で全国の人がディスプレイと売場作りのノウハウを学ぶことになった。ロフトは生活雑貨やインテリアや文具やギフト対応の雑貨類が多かったので思った以上に全国的に好評で教材は売れた。また92年には西武の社内教育用に人事部とウイルの依頼により、木内氏は60ぺージのVMDハンドブックを作成した。ロフトではフロアごとのテーマもあり、さらに季節ごとに色々なモチベーションテーマで装飾を行ったり館ごとのタイアップイベントも沢山あった。
1993年にロフトシードを去り、この年に㈱キウチアソシエイツを作った。このころ雑誌ギャップジャパンの取材で良品計画の有賀氏を訪問したら、特にニューヨークのVMDの実態を知りたがられたので、1つのプロトタイプ売場を作り、これを全米にディフュージョンするやり方やノウハウについてご説明した。また全店VMD担当者を副社長待遇にして数値責任を持たせる組織の在り方など説明したら、その後有賀氏は社長になられて、多店舗展開に向けて、売場開発課を作りたいのと、全国店頭に働く人に共通認識を持たせるための仕事をしてほしいと言われ、一緒にお店を見たら、領域別に看板が下がっていて、トルソーもピン打ちなので売場スタッフではメンテナンスできない。これではだめだと思い、領域別サインなどはやめて男性や女性のトルソーを置けばよいと考え提案し、軽くて売場の女性がメンテナンスできるように備品も見直して制作した。3年位で売場メンバーがやり方を理解できるようになり、まずモデル売場を作って陳列した発信書を作り、ファッション雑貨類やバッグなど多様なアイテムをどう見せるか、キウチメソッドで誰でも売場が作れるように6年程かけてMUJIのVMDマニュアルを整備し、衣料品、雑貨、食品など領域別に見せ方を徹底した。MDさんによる発信型の陳列指示書だけあっても実際の売場はうまくできない。対応できる什器がない場合もあるからだ。その売場なりに指定什器がない場合にどうやって売場着地させていくのか応用できるスキルを教えた。このころは無印良品は杉本貴志氏のディスプレーデザインも目を見張るほどであり、素晴らしいアイディアをたくさん出された。また無印メンバーも良く働いていた。アメリカ式にフィクスチャーバイブルというルールブックによって売上を作っていくMUJI VMDマニュアルも作った。10年近く無印をやって各売り場のVMD力は、とても成長した。そのころから、色々な百貨店に出店している大手アパレル各社さんからも評判を聞きつけてオファーがきたので、大手アパレル各社のVMDマニュアルも作ることになった。そのうち1社のための大型総合売場の提案をアメリカのVMD+SD誌に応募したら賞をとれた。クリスタルのトロフィーが出たのでそのメーカーさんは多変喜んでくださった。
現在もビジネスガイド社のギフトショーでは20年ほど前から、1時間半ほどの講演を年2回継続的にやっている
近年コロナ後はリアル店舗はやや厳しい状況が続いているが、女性にとってショッピングは娯楽であって、海外旅行に行っても必ずお店に行って買い物するし、落ち込んだ時にも買い物で気分が晴れる。素敵なものを探しに素敵な場所に行って、素敵な接客を受けてパッと気持ちを変えたい気持ちは、今後も変わらないだろう。リアル店舗での人とのコミュニケーションは今後も大切だと思う。
当時3Sと言われた創造的な会社は内部に創造力があった。その一つだった西武にいられたことを今も感謝している。





