1978年横山明浩氏は池袋店婦人雑貨婦人靴売場に入社し4年間の経験を積んだあと、サンシャインの本部商品部婦人雑貨の婦人靴バイヤーを3年、アクセサリーバイヤーを2年程経験したあと、商品開発部の婦人雑貨担当になった。89年4月には香港西武準備室に異動。香港西武は店長が石神氏、販売部長加光氏、総務部長水谷氏、紳士吉田氏、婦人柴崎氏、婦人雑貨横山氏、高雑前川氏、インテリア•ロフト奥畑氏、人事関連は小笹氏であった。横山氏は香港では婦人雑貨だけでなく、紳士の靴やバッグなど紳士雑貨も担当することになった。横山氏は90年の開店から93年まで香港西武に勤務した。香港西武は香港ヤッピーと言われる高学歴高収入で自由で洗練された若い層を対象にした香港版バーニーズのようなセレクト業態であった。香港では欧米の主要ブランドのほとんどは既にジョイスブティックが代理店として一手に展開していた。香港は日本国内のような問屋機能はなく、欧米と同じようにバイヤーが直接仕入れる完全買い取り型であった。かつ香港は世界の有名ブランドのほとんどが出店しており、各ブランドの欧米のファクトリーまで行って直接仕入れたりしていた。
93年春にまた商品部婦人雑貨ハンドバッグバイヤーとして本部勤務になったが、また2年後の95年に再度香港西武勤務となる。今度は濱田氏に代わる販売部長であり、店長も石川氏から保坂氏に代わった。同時期に香港でニットやコートなどOEMの商品生産を広州などで行う西和インターナショナルには長沢氏と三井田氏が在籍していて事務所もすぐそばだった。現在は西武の名前はなくなっているが金鐘(アドミラリティ)の店舗は名前を変えて存在する。5年ほど前には同窓会をやりたいという話が来て、3人程で香港に行った。
2度目の香港を終えた後、日本には戻らず今度はニューヨーク駐在に3年間赴任した。このころは西武百貨店はサックス・フィフス・アベニューと提携し副社長のアン・ボールさんやミラーさんと協議しながら西武のPBを作ったり、サックスの顧客組織のサックスクラブを参考に西武の顧客組織クラブオンを作ろうとしていた。ただしアメリカには自動引き落としがなく、毎月顧客に送られてくる請求書に対してその月に小切手で支払う方式であり、払わなければ翌月利子が付いた請求が又来るという仕組みで、全く異なるものであった。
ニューヨークの商品関連では最大規模は西武が代理店をやっていたポロラルフローレンであり、自分もこれに興味があった。日本には領域別に多くのライセンシーがいて、アプルーバルのために度々ニューヨークにやってきた。婦人服は樫山系のインパクト21、メンズはアクティ21、こども、スポーツ、ニット類はナイガイであった。ポロ社はメンズとレディースとインテリアと雑貨類ではオフィスは別々になっていて、それぞれがライセンス供与をしていた。思い出すのはナイガイが日本人が喜ぶのでポロマークを大きくしたいと言って申し入れたがアメリカ側はOKを出さなかった。しかしその後は本国も結局この手法を取り入れたビッグポニーのラインがどんどん増えてきた。またポロゴルフは冬用にキルティングゴルフウエアを作りたいと提案したが、本国側は冬は暖かいフロリダに行くべきであり、なぜ真冬にゴルフをやるのかという話で前に進まなかった。またアウトレットが出始めた頃でもあり、サンプルで作った多くの商品が結局アウトレットに並ぶこともあり、無駄にならず効率的であった。
ポロでは当時まだ日本でニーズの大きなライセンス商品になりうる雨傘とタオルハンカチが作られていなかったので、前所長の石井さんから何とかしてこれらのライセンス供与を取り付けるよう要請があった。しかしファッションビジネスのメンズ部門もウイメンズ部門も、雨が多く猛暑もある日本でのニーズの大きさが理解できず、これらのライセンスには良い顔をしてくれない。レジデンス部門やインテリア部門の方々に日本の降水率の高さや傘市場の大きさなどを会食を交えてじっくり説明して、競合ライセンス商品の日本市場での展開などを説明してようやく両方ともライセンス生産の承認をもらった。当然だがこれら2つは大変大きな市場規模になった。そもそもハンカチや傘を持ち歩く習慣のない欧米の国々ではこれらのビジネスの大切さが理解できなかったが、後になって売り上げ規模の大きさに驚いていた。ポロラルフローレンは西武に大きく貢献してくれたブランドだった。
99年に横山氏は帰国して商品部子供部長となる。これを2年程経験したあと、㈱そごう本部の横浜スカイビルに異動になる。そごうの商品企画担当となり、そごう出身メンバーとともに構造改善に取り組みこととなる。そごう全店では部門ごとに過剰面積で赤字の売場を適正化する仕事が多かったが、書籍やCD、ロフトや無印など多くの大型テナントの導入もまたその一つだった。2003年にはそごうと西武を統括するミレニアムリテイリングが生まれ、大手町の旧JFEビルに本部を構え、横山氏は婦人雑貨部長になった。この仕事は本部が九段のイタリア文化会館ビルに引越した後も続いた。
その後2008年には千葉そごうの販売部長で2年、そして1年半ほど柏店長を経験し、そのあと2011年頃横浜店の内田店長の下で副店長。2013年には大宮店長、14年には広島店長。どの店舗に行っても基礎となったのは、これまでの経験であった。婦人雑貨だけでなく商品開発部で紳士や婦人やインテリアなど他部門の方々と一緒に働いたこと、海外を含め様々なメンバーとの交流、また自分の目利きだけで完全買い取りバイイングをせざるを得なかった香港での経験も活かすことができた。香港西武を売却するときに米谷専務は、もしもあのまま香港を続けることができたら、意欲あるバイヤーは香港を足掛かりに世界の百貨店のバイヤーのように欧米でのバイイング活動に進むことができたはずなのに残念だとおっしゃっていたのを思い出す。自分で責任をもって仕入れて販売して処分まで行うようなバイヤーは問屋の充実した日本国内の百貨店ビジネスだけではなかなか生まれてこないからだ。
