石川隆氏は1969年に元の㈱緑屋(現クレディセゾン)横須賀店入社後に緑屋商品部で13年間にわたり、43店舗分の紳士靴のセントラルバイイングに従事し、売上管理から在庫管理まで担当していた。そのうちに㈱西武百貨店と与信調査業務の提携からスタートし、西武百貨店と業務提携がはじまり、最終的に経営統合した。その後、緑屋の店舗網は縮小され、以降の業務は信販業務に専業化していったことを受け、石川氏は西武百貨店本部商品部での紳士靴のバイヤーとなり、この仕事への関心が次第に高まり、販売管理や在庫管理だけでなくモノづくりにも関わるようになり、百貨店で売るべき価値ある革靴をさらに磨きあげたいと思うようになった。
当時の百貨店紳士服部門のメインはスーツであり中でもオーダーメードが技術的にも難しく、最も重視されていた。田村先生という大御所はオーダーメイド服の第一人者であり、堤康次郎氏の自宅に行ってオーダー服を作っていて、その後には清二社長とも一緒に仕事をしてきたため、紳士服飾部では大先輩として尊敬されていた。堤清二会長が新店オープンの際に各売り場を点検巡回するときには、紳士服メンバーが売場で待っていると、会長は田村先生のところに近寄っていて挨拶をしていたので、皆この方がすごい先生であることが分かった。重鎮でありながら気さくな方であり、清二会長の紳士服の先生であった。戦前までは、オフィスで働くビジネスマンは数少ないエリートであり、身に着けるのはオーダースーツだけでなく革靴オーダーシューズが一般的で、それぞれの地元の靴職人が一人一人採寸して作るものだったが、戦後は軍靴をベースに機械製造の機械靴が普及しはじめ、機械靴5社が百貨店の主流となった。それまでは紳士靴オーダーは時間がかかり高価だったので、一般人は手が出なかった。戦後は休日でも男性は普通の革靴をはいて家族で動物園などにもいく人が多かった。いまは全く逆になり、オンもオフもどちらもスニーカーが般的になったが、靴はもっと着る服に合わせて履く楽しみもあると思う。
紳士靴バイヤーとしては海外買付も良く行った。海外買い付けで思い出があるのは英国高級靴のエドワード・グリーン。これを西武百貨店ではぜひ扱いたいと思い、英国本国の社長に連絡して買い付けたが、当時もやはり最高級価格帯の紳士靴であった。エドワード・グリーンの社長は、10万円を超える高級品を売るには、たくさん仕入れなくてよいから、手をかけて作った靴の良さをちゃんと紹介してほしいという言葉があったので、それを守ってずっと展開していた。エドワード・グリーンはフルスティック社長が亡くなった後は、社長の奥様が新社長になって会社は続いたが、お悔やみにも英国の本社を訪問した。当時買付に行くと、英国ノーザンプトンの工場の入口には「今日の生産目標50足」などとと書いてあった。たったそれだけの一日の生産量で全世界に供給していたのだから、手作業が多い高級紳士靴のやはりかなりの少量生産だと思う。
一方でイタリアのステファノ・ブランキーニは職人というよりデザイナーだった。ヨーロッパのレザーアイテム展示会であるミカムの会場に一緒に行った川村氏はなんとブランキーニ氏と同じ靴学校OBであったため、この人の力で日本の代理店を通さず直接商売した。ブランキーニ氏は何度か西武の売場にも来てくれたし、パティーヌという色付けイベントを店頭でやってくれた。英国の伝統靴と異なり、イタリアの靴は感性が高く、時代と共に変化していたので英国とは全く違う人気だった。さらにハンガリーのブダイシューズも重厚感ある登山靴のような紳士靴で、独特な顔立ちの靴だった。ヨーロッパも国々によって紳士靴の価値観がわかって面白かった。今の時代の軽くて履きやすい靴も良いが、ちゃんとしたウールのスーツには紐を締める革靴を履いてもらいたいと思う。時代の価値観が紳士服を買えたのだろう。ウールスーツより機能性ある今のカジュアルな合成素材のスーツには合成底のカジュアル靴で良いだろうが、ウールスーツやコットンシャツにはやはり天然皮革の靴が合うだろうと思う。
本当に25年間靴に関わってきて、ひとつひとつ手をかけて作られたものは大切に長く使われるだろう。自分は使い捨てでないモノを大切に使うことを勉強してきたと思う。シューズデザイナーの津久井玲子さんは、今も本物の紳士靴をオーダーで作っているが、靴づくり名人の関さんの弟子である。1足1足作る紳士靴は10年20年履くことができ、だんだん馴染んでくる本物だと思う。田口社長も林前社長も百貨店らしいこだわりのある池袋店の紳士靴売場にはよく現れては、色々なことを聞かれたことを思い出す。
