G6 元西武百貨店文化事業部 井田芳子 (撮影日:2025/09/17)

井田芳子氏は大学院卒で1980年西武百貨店文化事業部に入社。当時文化事業部は紀国役員と小田部長の頃。当時の文化施設は池袋西武美術館と船橋西武美術館と79年にできたスタジオ200だけだった。スタジオ200は池袋店本館8階からも入れるTKビル8階にあり、直通エレベーターもあり2層分の天井高があり、映画や演劇などパフォーマンスアート、落語や講演会など、ジャンルをクロスさせ、更に超える相乗効果を期待した実験空間だった。ここは「池袋コミュニティ・カレッジの体験教室」と銘打たれていたが、これはスタジオ200は2方向避難は問題なかったが通路幅員が不足で、不特定多数が来場する興行施設にできず、当初計画していた映画興行中心での運営ができなかったため、コミカレ1日会員が講座付きで映画鑑賞も行うという方式になった。演劇では渡辺えりこ氏の劇団3〇〇や如月小春氏などが公演を行い、次第に人気になりキャパシティ不足になっていった。舞踏では土方巽氏や大野一雄氏など大御所から田中 泯氏も出演。舞踏以外のパフォーマンスやコンテンポラリーダンスもコンスタントに開催していた。それぞれのジャンルの担当者がいたため、企画は充実していた。映画はシネセゾンができるまではスタジオ200が中心だったが、内容は前衛映画やインディペンデント系の作品中心だった。また小泉文夫氏の民族音楽講座や実験的な現代音楽や環境音楽のコンサートも開催された。渋谷陽一氏のロック講座、セゾングループと関係の深かった安藤忠雄氏の建築講演なども開催された。当時スタジオ200の企画運営は本部文化事業部で行っていた。入社当初自分は、グループ内の色々な文化活動を組織化しようとしていた企画統括部門に所属。部長には趣味雑貨部長を兼務する由良氏が赴任し、後にインターコンチネンタルに行く加藤氏もいた。課題や方向性を受けた展開計画を年度別に作り中長期政策にしていき、年度別目標を立てるも、それが結果検証されることは少なく、次の計画に進むことが多かった。六本木シネヴィヴァンも銀座シネセゾンも黒字化する数値目標を日割りにすると平日の昼間にかなり満席になることが必要になるなど、無理な計画があまり吟味されず、却下されることはなかった。八尾ホールやつかしんホールなど関西への出店ラッシュに伴いホールの数も増えていったが、どれもかなりの規模のものだった。関西の情報誌や阪急5のホール担当者などとも情報交換は行った。できあがった大きくて立派なホールは後日、地元で人気の演歌歌手のコンサートなどでは満員になった。八尾もつかしんも階段状客席が引き出したり収納したりできる多目的ホールであり、多目的という作りには当初疑問を持ったが、地方のホールはその後ほとんどがこのような多目的型が標準になっていったので、西武セゾンが作ったホールはその先駆けとなった。八尾ホールはスーパーポテトのデザインがすばらしいものであったが、音響効果などには課題も残り、寺山修司氏生前最後の公演となった「毛皮のマリー」の際は大音響の振動で天井からホコリが落ちてきた。いろいろなホールを比較して分かったことはスタジオ200は他のホールより領域別企画スタッフが充実していて、多彩なプログラムができたことが分かった。さらに同じ文化事業部内で西武美術館やコミカレとの企画連動もできたため、ヨーゼフボイスの公演など他ではありえないメニューも展開された。すべての連動企画が成功したわけではないが、若いスタッフがそれぞれ好きなジャンルの企画を持ち込んだ結果、ほかにない充実した演目が毎月開催されていた。当時は船橋店や西友にもコミカレが作られ、関西の西武にもあった。コミカレはいわゆる文化教室やカルチャーセンターメニュー以外の現代思想など知の最前線を紹介する人文系の多彩な講座があり、いずれは学校組織にしたいという願望もあったと思われる。