L2 元西武百貨店池袋店紳士、有楽町店紳士、商品開発部、商品部紳士服飾部 高島信夫 (撮影日:2026/02/16)

高島信夫氏は1977年に西武池袋本店4階紳士服飾フロアのパルコ寄りのヤングゾーンに配属された。ヤングゾーンはトラッドのアイビーマート、ヨーロピアンのサンジェルマン、そしてジーンズマートが紳士服飾扱いで、雑貨中心の薄暗いゾーン「ウエストビレッジ」はショップ販売部扱いで展開されていた。ここは5坪ほどのショップが多かったが当時は三宅部長がやっていた。文化屋雑貨店などもあって怪しい雰囲気だったがこのフロアは勢いがあった。まだ当時は百貨店としてジーンズを始めて扱った西武を追う店はまだ少なく、当時ジーンズ売場はほとんどなかった。アイビーマートの核はVANとVANのアウトドア系ブランドのSCENE(シーン)であった。百貨店紳士では初めて西武がVANを出店させて以降、トラッドやアイビーは若者に人気拡大していた。自分の売場以外にも五反田TOCや流通卸センターTRCや池袋店7階催事場など毎週のように店外催事があり、毎週違う場所で声を枯らしていた。78年にVANが倒産したのでVANの債権者が店に押しかけてきて保安が来て債権者からガードする騒ぎなどで社会の仕組みを感じた。

79年からはテッドラピドスやイッセイミヤケメンなどを展開するエレガンスプレタ売場に異動した。まだ無名だったころのアルマーニやヴェルサーチェ、エンリコ・コーベリやティエリー・ミュグレーやマルセル・ラサンスなども品ぞろえとして扱っていた。ここはそれぞれのブランドの日本法人はおろか単独ショップもできていない紹介期商材の売場だった。このころから日本にもインポートカジュアルが入り始めた。ポパイ等の雑誌にも年中掲載されるようになり、芸能人顧客も沢山来店していた。水野社長も買物に年中来ていた。これらのブランドは全部西武からスタートした。商品部紳士では野村さんというインポートバイヤーが買い付けてきた。ミュグレーなど尖ったスタイルの紳士服や新登場のフレンチトラッドなど新たな切り口の商品が多かった。

エレガンスプレタ売場を1年やって、売上規模の大きな既製服売場に異動した。このころは若い世代のリクルートスーツキャンペーンが主戦場で大変忙しかった。10月が会社訪問解禁であるため、各百貨店は8月にリクルートスーツの大プロモーションをやっていた。斉藤均司氏が係長で、営業企画の森川氏が企画した竹村健一講演会をやったり、8階屋上で学生プロレス団体をあつめてリングを作ってアマチュアプロレス興行をやったらスポーツ新聞各社がみんなやってきて評判となった。プロモーションとして大成功した。翌年は自分で企画してミスターキャンパスコンテストを学生の企画団体に頼んで、4階の祭りの広場でやった。賞品は川島なお美とのデート権という企画だった。審査員はミスDJに頼んだ。あまり応募者は集まらなかったが、会場には当日にカメラ小僧が大量に集まる結果となり、カメラ小僧の人気は川島なお美とミスDJばかりに集中したが、新聞では酷評されてしまった。まだ20代の自分の企画だったが当時の西武は色々自由にやらせてくれた。

次に池袋本店紳士ポロショップの係長になった。ポロポニーのワンポイントポロシャツもポロポニー柄のネクタイもオックスフォードシャツも、品出しするとすぐに店頭から無くなる勢いで、大変よく売れた。当時はポロショップは伊勢丹でも未展開であり、ポロラルフローレンはポロを日本に導入した西武百貨店のPB売場だった。

次に有楽町西武オープン前の5月に有楽町西武準備室に異動した。4000坪もない店だったが、だいたいのゾーニングしか決まっておらず、デイリーズベストを合言葉に都市生活者向けた値ごろ商品開発商品で主要な売場を埋め尽くすという意図で、自主ブランドの「U251」と「ザマーケット」を自社社員で自主販売した。オープン当日は新聞などでマリオン現象と言われる大騒ぎになり、入店待ちのお客さまが店を何重にも取り巻く大行列となった。館内CCTVが登場したり、同時期のつくば科学博への出品や、セゾンカードのロゴをボディに書いた朝日航洋の飛行船が上空を飛ぶという、西武セゾングループを挙げての情報発信が行われた。この年は西武池袋本店が三越本店を抜いて売上日本一になった年だった。

1987年は有楽町西武紳士服企画担当で毎月のように海外展が立案し、全館プロモーションとしてインド展、スペイン展、英国展などをやった。英国展の時に有楽町店新館がオープンした。英国シャツメーカーのターンブル&アッサーからカッターを二人呼んで店頭で採寸するイベントとか、ツイード機織り職人をアラン島から織機ごと持って連れてきて、一日中大きな音を立てて店頭でツイードを織ったりした。ものすごくダイナミックなプロモーションとなった。アンティーク家具では牧山圭一氏肝いりのエイドリアン・ホーンジーのリビルトしたアンティークバーカウンターが紳士フロアに登場し、クラシックな男の世界を売場に再現した。これらも凄くお金をかけたプロモーションだった。

1988年には本部商品開発でヴァリエ・イタリアの企画を始めた。イタリアの有名ファクトリーで自社紳士ブランドのヴァリエを海外生産するということで、11月からこのプロジェクトのメンバーになり、1月に答申が決裁され、すぐイタリアに工場探しに行ったが、条件に合う工場はなかなか見つからなかった。結局スーツはルビアンという工場、ワイシャツはセンプールという工場に発注した。ルビアンはマントバにある工場だった。工場選定には1年くらいかかった。出張は高島氏と日本側コーディネーターの山岸さんとヨーロッパ側コーディネーターのマイケルセントジョン氏が一緒だった。西武の紳士服PBのヴァリエはブランドデビューからエットーレソットサスを中心に一世を風靡したミラノのポストモダンデザイングループ「メンフィス」のメンバー全員が来日して写真撮影モデルをつとめた広告ポスターで世に出ていたため、このブランド、ヴァリエは最初からイタリアとの親和性があった。

その後も東京クリエイティブ、J-WAVEなどのブランドなどの商品開発に携わった。東京クリエイティブは西武百貨店が旗振り役となった日本の大企業10社の商品開発運動であり、青山スパイラルの展示会に向けての商品開発が大変だった。J-WAVEは堤清二氏の始めたFM放送局であったり、当時西武が買収したインターコンチネンタルホテルやジャガークラブのロゴなどをあしらった商品開発の仕事が来たりした。J‐WAVEは渋谷店にショップも作ってもらった。それら全部が事業化を目標にしていた。西武の商品開発力に期待した外部からの申し入れも多く、海上保安庁の施設訪問者向け商品開発も依頼された。神奈川県のブランド、セイラリエスの企画開発もやった。今も西武の商事部では、キャンペーン景品商品の企画業務を展開している。アジアクリエイティブという企画ではバティクプリントなど素晴らしいものがあった。好景気を背景に、オリジナルのモノづくり企画の仕事は次々と来ていた。

しかし1991年にまだ水野・牧山時代ではあったが会社の政策が変わり、開発商品の在庫が急速に増えた事を理由に商品開発活動に急なストップがかけられた。このため全バイヤーを集めて開発商品のストップ指示をかけたが、バイヤーたちからは大反発をうけた。その年に今度は紳士服飾部の商品部企画担当となった。この時の紳士服飾部長は檜山さんだった。翌年は神戸西武の開業やその他店舗の紳士フロア改装の仕事に従事した。神戸西武は自分たちの地盤ではない関西店舗なので競合百貨店からの圧力が強く、関東で売場の中心となる紳士の有力アパレルがどこも出店してくれなかった。このため水野社長指示で中島部長がユナイテッドアローズと出店交渉し、50坪のUAショップができ、関西でのユナイテッドアローズの足掛かりとなった。93年から本部バイヤーとして高槻や有楽町や渋谷の紳士フロア改装答申を行ったが、有楽町の紳士答申では和田社長から毎度はねられ、結局はメンズアンドレディスのユナイテッドアローズとポロショップだけが決裁されたため、B館のこの2店舗以外の紳士ブランドは有楽町から排除される結果となり、有楽町はこの2店舗以外は全てレディースの館になった。

1995年秋に知人に誘われスペインのSPAパラフィーネを韓国で展開する仕事に従事することになり、西武を退社した。当時は西武がZARA獲得を狙ったが失敗するなど、スペインSPAが日本では注目されていた時代だった。しかしこのプロジェクトが1年ほどで頓挫してしまい、当時ヨーカドーが経営していたロビンソン百貨店に行った。しかし、ロビンソンがヨーカドーグループに入った西武そごうで運営、展開する事になったので西武での仕事に復帰した。再度入った西武ではイーデパートのバイヤー業務だったが、大変忙しかった。3年程イーデパート部門のスポーツと子供のバイヤーをやったが毎日夜遅くまで仕事が終わらなかった。61歳でトレーナーとなって、最初入社した懐かしい池袋本店の紳士に戻り定年となった。自分は数十年の紳士ファッション業界の栄枯盛衰と共にしてきて、良い経験と楽しい仕事ができたと思っている。何もかもが今の時代とは全く違う様相だった。


1977年 昭和52年 4月㈱西武百貨店入年社
配属 池袋本店 紳士服飾部(当時の紳士服は4階でした) ヤングマン売場 (4階南側パルコ寄り)に配属。
ヤングマン売場はトラッドのアイビーマート、ヨーロピアンカジュアルのサンジェルマン、ジーンズマートとショップ販売部管轄の文化や雑貨店などが出店する雑貨売場 ウエストビレッジで構成されていた。
ヤングマンでは店頭業務と同時に催事商品の販売で 7階催事場、 TOC、 TRC、 ホテルなど毎週のように売場外での業務があった。VANの倒産での騒動を経験、1979昭和54年 4月 エレガンスプレタに異動。ここではテッドラピドス、ギラロッシュ、ベルサーチ、 アルマーニ、エンリコ・ コーベリ、ティエリー・ミュグレ、マルセル・ラサンスなどがショップ展開前の紹介期でバイヤーがヨーロッパから直輸入されていた。またイッセイミヤケメンも品揃えとしてここで展開していた。
1980年 紳士服飾部ではリクルートスーツプロモーションとして森川茂治氏企画プロデュースで各大学プロレスクラブを束ねた学生プロレスイベントを8階屋上で開催。 竹村健一 牧野昇氏などリクルーター人気の評論家の講演会も開催。
1980年 昭和55年99月 紳士既製服売場に異動
リクルートスーツフェア として4階祭りの広場で大学生対抗のミスターキャンパスコンテスト開催。
1983年 昭和58年 2月 POLO 係長として早期受注会開催
1984年 昭和59年5月、有楽町西武 開店準備室に異動。感性劇場を標ぼうした有楽町店は、アクティブな都市生活者に向け、西武セゾングループの総力をあげ、つくば万博に出展したり、先端技術活用で館内CCTVを設置し、狭隘な3894坪の面積ながら「 ほどよい狭さの大世界」をキャッチコピーに開業した。
シティスーパーを合言葉に1階から5階まで「新しいモノを新しい売り方で」という考え方でU251やザ・マーケットなど手頃な価格で高感度の自主商品を自主販売。デイリーズベスト(毎日使うものへのこだわり)としてボリュームゾーンでの差別化を狙った。バイウイークリーの営業企画投入が行われた。
1987年、企画担当として 海外催事の売場企画 英国展、 ベルギー展 、スペイン展、 銀座ホテル西洋でオーダー催事も開催した。このころ買い付けで中国 フランスに初の海外出張
1988年 昭和63年11月 本部商品開発スタッフに異動 イタリアでオリジナルの紳士ブランド開発
1990年 平成2年 商品開発担当として 東京クリエイティブ、 J-WAVE、 インターコンチネンタルホテル、アジアクリエイティブ、 海上保安庁、 神奈川県 セイラリエスなどの商品開発に従事。
1991年 平成3年 政策変更での商品開発中止指示を受け、以降は自前の買取商品は開発できなくなる。
1991年 平成3年秋 紳士企画担当 神戸西武の商品計画及び旭川西武改装商品計画
1993年 平成5年 商品部紳士バイヤー として改装(高槻 有楽町 渋谷)に従事
1995年 平成7年 退社 自営
1996年 ロビンソン百貨店勤務(ヨーカドーグループ)
2009年 ロビンソン百貨店のそごう西武オペレーション化にともない、そごう西武に異動
2012年 平成24年 そごう西武eデパートバイヤー
2015年秋 池袋店トレーナーとして池袋店紳士服フロアに勤務
2019年春 そごう西武退社