近松慎也氏は1982年西武百貨店関西で採用されすぐ東京に転籍となり、池袋店食品に配属された。当時の西武はイメージが良い人気企業で大量採用時代で池袋食品に同期13人も配属されたが、店頭業務は嫌われ、特に食品配属ですぐに辞めた人までいたが、自分は元々百貨店食品では阪急と並んで人気があり、最も先進的だった西武が好きで、特にルノートルに憧れて志望したという食品志望だった。
配属されたのは地下ではなく7階にあったデリカセブンだった。当時は生鮮、菓子、惣菜、デリカのの4部門でデリカの中にデリカセブンというコーナーがあった。ここは日中国交正常化を受けて堤清二氏が中国と合弁で作った北京西武のショップとして英記茶荘、六必居、碧春茶荘等の食品や中国段通や中国高級文具の栄宝斎、漢方薬の同仁堂などの中国本土の高級専門店が並ぶ北京老舗街にあった。毎週甕を空けて紹興酒を小分け量り売りしたり、当時は外に匂いの漏れた中国缶詰を並べたり、何万円もする高級フカヒレや魚の浮袋など、容赦ない本物の高級乾物も扱った。時々は堤会長も現れ若い自分たちには「どうしてこれを扱っているのですか」と優しく言い出したが、難しかった。これは「こんなもの扱うべきでない」という意味であり、すぐに品物を下げた。また「この壁の色は何色ですか」という質問は、「壁の色が間違っている」という意味であったが、先輩たちに教わるまで気付かなかった。また半年したら伊藤園しかやってなかった烏龍茶にサントリーが乗り出して中国に工場を作るニュースが流れると、会長は「この売場は、もうできた頃の10倍の売上になっているんでしょうね」と言い出し、慌てて高津役員が飛んできて、売場総点検になった。
1年目の終わりに歳暮期に、家に届けるお歳暮として、その手伝いで生鮮に行ったら、そのまま生鮮に行った。当時は阪急と西武だけが自営生鮮をやっていて月二回は築地に行って仲買と一緒に商品を抑えてもらい日商岩井からアラスカ直輸入数の子で70%も利益が出た。だが課長は勉強のためということで他社に迷惑をかけたがやらせてくれた。干物も有名店のものを買い取って500円以下のない干物を売っていたら、車椅子の老人が孫に連れられてやってきて、600円もするアジの干物を売りつけた孫が騙されたと思ったが人生で一番美味しい干物だったので、売った奴の顔を見に来たと言われた。当時は3万円の刺身盛り合わせを持ってこいというようなお客さまからの注文も多かった。マグロのトロから何センチの部分の中トロを持ってこいといった専門的な指定を頂くこともあり、良いお客さまに育てられたと思う。
この仕事を4年やったあと、27歳で食品事務所勤務となった。自分は企画担当だと思っていたが、このころ同期の統括担当が長銀の研究所に出向になった後を受け、数字を担当する統括担当をすることになった。しかし1年後に実家が食品関係だったので、似たような境遇の食品の社員と一緒に催事を開発する担当になった。実家の関係で関西の飲食関係には強かったので電話一本で色々な取引先と話ができて重宝がられた。西武は関西や京都には弱かったからだ。毎年年末31日はお客さまからの注文を受けたおせち料理を受け取りに新幹線で大阪の老舗料亭を回るのが恒例になっていた。これは凄い仕事だったが、まだまだこういう事例はたくさんあった。ある年に西武は今後、中元歳暮で生の肉や魚を全国配送する超生鮮ギフトを始めるという記事がでたので誰がやるのかと思っていたら、実は自分が担当することになっていて、40日間の中元歳暮期には毎朝、江原流通センターに7時に行って注文を受けた生鮮品に氷を詰めて梱包をして全国に発送した。業界のパーティーなどにも自分を出させてくれたので食品業界での顔も広まった。自分の記事がデパートニュースに出ていたので地方百貨店にも顔が知られるようになっていった。ある時九州のラーメン数店舗をまとめたギフトを作れという指示が出て、伝手がないので困って、以前大分のトキハに行ったとき、顔を見て声をかけてくれ知合いになっただけのトキハ百貨店の食品の方に頼んで九州ラーメン数店舗のセットギフトの調達をやってもらった。役員会では和田さんは「去年のことはいいから今年何をやるのかだけ話せ」と言われた。過去を見返ることもなく、どんどん新しい物を要求された。今では普通になったが業界初のクリスマスケーキの12月24日配送というリスクのある仕事も始めた。当時ヤマト運輸に押され始めた郵政省の東京中央郵便局から相談を受け、実家でつながりのあったウイーンのザッハーホテルの由緒正しい1万円のザッハートルテを1000個押さえて、セゾンカード会報誌に載せたら全国からすぐに1000個のオーダーが来た。当時はパソコンも携帯電話もない時代だったので、配達員がお客さまに届け終わって受領印をもらうとすぐに電話を本部に入れて、名簿を消し込むという人力システムであったが、これで有楽町西武に1000万円の売り上げを立てた。
水野社長が就任すると水野社長周辺の小さな企画会社やアーティストや大企業からの相談や注文も増えてきた。NTT都市開発がアーバンネット大手町ビルを建てることになり、自前でレストラン会社を作ることになった。そしてここの1階に自前で125坪のレストランを作りたいから手伝えという話が来た。そこで西洋フードと一緒にこれを担当することになり天高5mの巨大空間の中央部に丘を作り、その中を事務所にして丘の上は宴会スペースとしてグランドセントラルというニューヨークの駅の名前をつけた店になり、先進的なケータリングチームのキュールとお洒落なメニューを開発し、12mの天然木のカウンターなど贅をこらした内装の店に仕上げた。この店は今も継続している。2億5千万もかかったが毎年5千万の利益が出て5年で回収できて西武は手を引いた。
そごう横浜店は3~4カ月で食品フロア全部の改装をやることになり大変だった。そのころは競合の高島屋の背中も見えないほどの大差がついていた。この時初めて、それまでどこの百貨店でも一番奥にあった虎屋を入口に配置し店の顔にし、これ以降虎屋は全店食品売場の入口に置かれることになった。横浜店では地元の人気洋菓子店を全部回って出店要請した。神戸でもそうだが、なぜか人はいつも東側に集まるもので西にはいかない。だから神戸店もそれより西側にあった支店を閉めたあと、西からの集客力が落ちた。神奈川も同じで横浜から西の人は横浜から先の東京にはいかない。しかし駅の改札から遠いそごうは高島屋には歯が立たなかった。改装工事はいつもギリギリまでかかり、全て完成した直後にお客さまがなだれ込んできた。しかもそごうの改装はいつも神戸と西神とか広島と呉とか近隣の複数店舗を同時に進める突貫工事だった。
大宮改装の際には取材要請に食品では自分がテレビに呼ばれ、番組「今日のできごと」で改装内容を説明したが、一緒に出た大宮店の人が、この人はカリスマバイヤーだと言ったおかげでカリスマバイヤーと呼ばれるようになり、毎月のようにテレビに出た。そのころの仕事としてはバレンタインを変えることになった。昔は男性に女性がプレゼントしていたイベントがだんだん形骸化して東武では500円、1000円の「ギリチョコ」センターをやったので西武ではもっと高額でこだわった内容の「トモチョコ」「オヤチョコ」「マイチョコ」を出し、MJに取り上げられフジテレビに出て今のチョコレートブームになった。これにより3000円、5千円、1万円のチョコレートも売れた。しかしチョコレートでは伊勢丹が結果的にはサロンドショコラで漁夫の利を得た。もともとサロンドショコラは自分のところに売り込みに来たのだったが、当時三菱商事よりたくさんフランスから物を買っていた西武百貨店ではルイヴィトンも自営でエルメスも関係会社であった位で、フランスネタはたくさんあったので伊勢丹を紹介したら、伊勢丹が権利を買った。それ以降伊勢丹がメゾンドショコラを始めて今に至る。今でも西武が始めたことは多い。食品部門では昔は菓子担当はあまり偉くならなかった。海苔の山本山も出店してくれなかったのは中元歳暮ギフトが老舗百貨店ほどには売れなかったからだ。中元歳暮ギフトが百貨店食品部の一番大切な収入源だった。自分は実家の家業もあったので菓子とは縁があった。商品部では年長の企画担当が先に居たので自分は統括担当となって菓子も見ることになり、18年間もこの仕事をやったので多くの取引先と長い付き合いができ、彼らとツーカーになって色々ついてきてくれた。今や菓子は食品の集客の要になってしまった。自分が入って10年してパティシエブームが起こり、辻口さんのところに5回くらい通って、菓子製造まで知っていたので色々と語り合ううちに出店してくれることになり、付き合いはもう30年になる。それ以降パティシエが百貨店にも出てくれることがわかり競合店も辻口さんのところに通い、辻口さんのビジネスが拡大していったのを見て、他のパティシエたちも百貨店に出始めたが、若手の辻口さんは重鎮パティシエたちからは、一緒にされたくないと言われ、うけは悪かった。各パティシエのチョコレート詰め合わせを計画したが重鎮パティシエたちが嫌がったので、世界的に有名なフランスのパティシエ3人を連れてきて、一人1個で30人のパティシエにしたら、やっと皆納得してれた。しかし30粒3万円のレザー宝石箱入りチョコギフトを提案したら、役員会では笑いものになった。しかし実際はこの3万円の宝石箱チョコレートは外商客中心に300個がたった3日で完売した。娘に良い顔をしたい父親がたった3万円でチョコレート入り宝石箱を選んでくれた。これも競合が翌年から一斉にみんな真似をした。
バレンタインの盛り上がりはお菓子メーカーさんたちみんなが喜んだ。単価が上がって今のバレンタインの盛り上がりになった。1店舗20億、30億売れる時代になった。年間でもチョコレート売上の半分はバレンタイン時期に売れるようになり、チョコレート業界は潤った。地方のパティシエやチョコレート業界からも信頼され期待されるようになった。
そのあと人事をめぐり当時の池袋副店長と近松氏の二人のどちらが執行役員食品部長になるかという話が起き、自分が年下だったので遠慮したら神戸店に出された。神戸の食品では連続して予算は行ったが店の売上はきつい時期だった。横浜と同様でオール神戸の洋菓子屋を全部出店してもらい、すぐに新幹線に乗れるお土産ニーズにこたえた。その後近松氏は東京に帰ってきたが食品部をやらせてもらえず、渋谷の改装をやる暫定部長になり、ヨーカドーの手で食品がスーパー化していたところをガーデンに変えてセブンアイには引いてもらったが、これは親会社の意に反することだった。
この改装は親会社のセブンアイグループにいた地方スーパー、ベニマルの大高社長が鈴木会長に渋谷店の食品の改装を進言し派遣されてきて、百貨店側の経営層には食品に詳しい人物がいなかったので、イトーヨーカ堂、ベニマルの手で売場をシティスーパー的に半分変え、売り上げ拡大を図ろうとする改装を行ったものだったが、これにより生鮮部門は価格志向のスーパーマーケット的な生鮮売場となり、従来の百貨店客が離れていった。食品ビジネスに対する考え方が全く異なっていたため、池袋生鮮でさえ100g100円の挽肉や、ベニマルの調理済み野菜を並べて販売した。
これに対し当時の食品の仁科部長はこれに反発し、上質顧客が中心の渋谷店での価格志向の大高路線での食品改装に抵抗したため、大高氏からの報告を受けた鈴木会長の逆鱗にふれ、仁科部長はISPに異動となり、後釜には近松氏が渋谷の「失われた百貨店MD再導入」のための部長として配属される事となった。しかし近松氏がヨーカドー型商品に代わるブランド食品とブランド農作物の大試食会を開催したところ、これを見た大高氏は、自分の考える食品より上質感がある近松氏の路線に抵抗感を感じ、再度近松氏も排除に動いた。
この結果近松氏は急遽渋谷を外され、本社の販促に回された。以降はマイナーな方向になり、57歳の大規模リストラで自主退職を希望したが許されなかった。しかし一方で親会社だったセブンアイグループ内ではグループ売上の7割が食品であることもあり、百貨店メンバーの中では近松氏の名前が有名であったため、これは逆に当時の西武そごう幹部には嫌われる事にもなった。
このため近松氏は結局百貨店から出向で、セブンアイのシニアマーチャンダイザーに行くことになった。ところが、セブンアイで近松氏が入ったチームは,当時鈴木会長の肝入りで招聘した元成城石井社長の大久保さんのチームであり、世界から良いものを安く入れて利益を取るグローバルMD開発室であった。この大久保さんは、成城石井と同様に、セブンアイでも髙差益率の取れる直輸入品を全業態で仕入れて売る計画であったが、テスト販売の結果、セブンアイの全業態中、大高氏のベニマルだけワイン,チーズ、生ハム、オリーブ,ピクルス、チョコレート等の輸入品が売れなかった。この想定外の結果を受け、大高氏は大久保さんをセブンアイグループのレストラン業態デニーズの社長に出してしまい、大高氏はそのチームを自分自身が受け継ぎ、その後の商品事故発生をきっかけにチームを潰し、同時に、近松氏もセブンアイを放り出されて西武に戻らされた。
結局はセブンからたった1年で西武に戻り、エリア別販促担当をやり、食品には戻れないままISPに行った。そこでは賃貸不動産経営管理士や宅建資格も取ったが4年だけの経験になった。そのあと池袋店内の食品以外をたらいまわしになったが、西武をやめて東武に行かれて話題になるのを恐れたのか、待遇は部長並みであったが1スタッフの仕事だった。いろいろとあったが自分は貴重な経験をさせてもらい、金を使ったプロジェクトもでき、人脈もできたのでよかったと思っている。いよいよ西武をやめるときに同志社大の先輩である元伊勢丹社長の大西氏が近松氏の食品キャリアを知って次を紹介してくれたので、その後は別な天地で新たな仕事に取り組んでいる。
