松本隆氏は1975年、池袋店9期の時期にスポーツ館ができる前に、池袋店スポーツ売場に入社。メンバー3人からスポーツ館を立上げた。ラルフローレンの紺色ベストの制服も発案した。後に池袋店販売計画部に移り、多くの海外プロモーションにも従事。その後、88年に「川崎事件」の開業広告が話題となったJR川崎駅前ルフロンにあった川崎西武の店長として赴任した。松本氏赴任の頃は、既に下り坂で改装予算も乏しく、DIYで多くの化粧直しも行った思い入れのある店であり、閉店が決まった時は従業員一同と大泣きした。西武百貨店の骨格は自身の入社時の池袋9期で形作られた。決定的だったのは、カンディンスキー、スーラージュ、デビュッフェ、イブクライン等近現代美術を初めて日本に紹介した西武美術館だが、売上面で西武池袋を日本一にしたのは、後発百貨店故のブランド不足を覆した堤邦子氏による海外直輸入ブランドだと思う。エルメス、サンローラン、JLシェレル、ルイフェロー、ミッソーニ、ソニアリキエル等全て邦子氏の力による。しかしそこで堤会長は日本にそれに類するものが何故無いのかを考えたのだと思う。この頃の堤氏は詩や政治の本と同時に西欧現代思想の書物を多読し、フーコー、バタイユ、ボードリヤール等から、「モノの価値」とは「意味」だと考えるようになり、西友のPB開発会議などで田中一光氏や小池一子氏らだけでなく、山本耀司氏らにも「価値って何だろう」という質問をしていた。そんな中から無印良品という強いコンセプトが生まれた。無印良品はコンセプトが強いため、時代の変化の中でもブレる事なく現在まで続いたのだと思う。また一方、西武百貨店はイベントやプロモーションに多くの資源をかける会社だった。当時の企画書には思い上がった「啓蒙」という言葉も多く、要は一般人に未知の商品を普及させるためにイベントやプロモーションを多発した。具体的にはドレスや毛皮を売っても着ていく所がないので、顧客向けファッションショーやパーティをグループの迎賓館だった米荘閣等で開催したりし、コトを起こしてモノを売った。当時はイベントコストは販売利益で十分賄えた。また、堤清二氏は感性の人だと言われていたが本人はお洒落に拘る面は少なく、むしろ選ばれた情報に拘った。歴史的視点にも拘り、アリストテレス、イエスキリストからワルターベンヤミンまでの思想史から特に、多くの人を動かす隠喩、メタファーに拘った。だからややもすると会議での指摘事項が難解になり、出席者は会長の言葉の解釈に困り、これに適切な解釈を行ってキーワード化した再提案が通ると冴えた提案だと社内で評価された。メタファーを正しく理解できないとコンセプトは作れない。例えば八尾店の計画提案に対する会長の発言は「パチンコ屋ですね。」だったという。これはパチンコ屋を入れるという意味ではなく、デイリー性、カジュアル、刺激の3要素だと社内は判断し、カラフルなイラストの華やかな外装、カジュアルウエアの充実、連日の小イベントや八尾ホール等に結実した。百貨店以外のグループ各社も同様で、西洋環境開発の海洋牧場や赤城自然園等、堤会長のメタファーを受けた新たなコンセプトで全く新たな施設を続々生み出していった。そうして100を超える事業を生み出していったのは社内で互いに競い合う風土があったからだろう。何でもプロジェクト化し新たな事業を生み出したが、セゾン以降の失われた30年になるとそういった苦労よりも、どこの経営者も安易なアウトソーシングや会社買収に依存するようになり、社員が競い合って価値を生み出す熱量は消えてしまった。しかし新たな事業を作ってきたセゾンの物語りはまだ終わっていないので次世代に伝えていきたい。
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元西武百貨店社長
松本隆
(撮影日:2025/06/10)