濱田雄治氏は1977年入社で渋谷店趣味雑貨に3年勤務の後、渋谷店営業開発部新館プロジェクト担当としてシード、ロフトの開発にあたる。当時濱田氏は知らなかったが、西武渋谷店の1968年の開店以降、後にパルコ専従となる増田通二氏は1973年の渋谷パルコ開店を準備しながら、初期の西武渋谷店長として既に新館プロジェクトに関わっており、濱田氏の前任はセゾン文化財団の北條愼治氏が兼務だった。かなりの時間とたくさんの人々が関わって渋谷にシード館、ロフト館が誕生した。本格始動したのは水野誠一氏が渋谷店長に赴任した後の84-85年から。水野店長のシード館イメージは渋谷店A館中2階にあったケンゾーやイッセイやカンサイやキクチタケオや川久保玲等多くの日本人デザイナーを世界に送り出した三島彰氏の伝説の売場カプセルだった。そこでシード館もキクチタケオ氏や勃興しつつあるDCブランドのシード独自商品のSEED by、またイッセイのアシャ等を導入したが、反応が鈍く売上も振るわず、1店舗展開でもあったため、意図やコンセプトは明確だったが、ビジネス規模にならなかった。シード館の客数の少なさを鑑みて、次の新館では当時近くにあった東急ハンズの集客力に目を付け、新たな雑貨領域を考えた。当時専門大店を目指した10期の頃の百貨店は大型問屋の力が強く、良い場所は問屋間の奪い合いだったが、雑貨は比較的自由度が高く、国内代理店が扱ってない日本未展開商品を、ロフト館の準備期からの企画担当で後に渋谷ロフト館長になる八木行夫氏が、第三国から平行輸入した陶器やオキュパイドジャパン等が話題になった。そしてバブル崩壊直前の梅田への出店が大盛況となり弾みがついた。ここは大家が不動産価値を高めるためロフトのため戦略的に比較的低い家賃を設定してくれた。これで全国大都市圏にロフトの多店舗展開事業計画が進みはじめた。その後池袋本店にもロフトを作れという指示があり、これに対し濱田氏は独立業態としてのロフトの百貨店内での制約、特に商品調達上の制約を主張して反対した。90年開店香港西武の店長が石神修氏から92年に2代目の石川正志氏に代わり、しばらく後93年に濱田氏は販売部長として香港に渡る。石川正志氏は、軌道に乗って成長しつつある香港西武とその将来を考えて、本社商品部への異動を拒んで、香港西武を自分と日本人社員チームを含めて売却しようと動いた。一方の和田繫明社長も厳しい経営環境で銀行融資残高削減になる香港西武売却には前向きであり、石川氏は和田社長の承認を受けて、何社と交渉したが、最終的に、本社が石川正志氏が交渉しなかったディクソングループに売却することになり、退社後、別の香港法人の支援を受けて、自分と日本人社員と香港西武香港人とのチームでシティスーパーを立ち上げた。濱田氏は石川さんの仕事で一時台湾にいたが、シティスーパー立ち上げに香港に戻った。そして濱田氏は香港西武とシティスーパーの仕事を2014年まで続けた。シティスーパーは香港西武での日本食品自前輸入ノウハウやロフトのFC展開のノウハウを活かしたファッション系ライフスタイル食品スーパーとなり生活雑貨も展開した。渋谷シード、渋谷ロフト、香港西武、シティスーパーは全て堤清二氏の脱百貨店型のライフスタイル産業の遺伝子を受け継いでいる。また濱田氏は内田樹氏と同級生で、学生時代から香港に行くまで交流があったと言う。
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元香港西武取締役販売部長、元西武渋谷店営業開発部長
濱田雄治
(撮影日:2025/08/13)