小坂竜氏は1986年乃村工藝社に入社した。入社した頃はそごう横浜店が開業した時期で、小坂氏は乃村工藝社の百貨店部門で、そごう横浜の内装、ウインドー、店内装飾の仕事からスタートした。当時の乃村は、そごう、高島屋、西武など百貨店別に4チームに分けられていた。1990年頃から西武の海外催事多発を受け、西武チームに移り、池袋、渋谷、有楽町でのハロー香港、英国展、イタリア展、インド展など次々仕事に追われた。各店ともウインドーやサイン類、ムービングPOPなど得意の造作物を多用した。渋谷店はA館1階の高い天井を活かした空間ジャックする大胆な演出を行い、メイン拠点の催事場まで全館演出した。海外催事の多くは春と秋の2回行われ、忙しかったが、こういった大規模な仕事は競合百貨店には見られないものだった。このころは朝までイメージスケッチを練るような仕事を夢中でしていた。よく覚えているのは、急に英国出張するよう池袋装飾担当者から指示があり、ゴールデンウィークでチケットが取れず若い自分がビジネスクラスで出張になった。英国では池袋の装飾担当者と一緒に蚤の市をめぐり、装飾用の古い照明器具やバケツなどの民具を買い付けたりした。こういった装飾備品は池袋店以外の地方店巡回時にも使われた。
プロモーション用装飾以外で思い出深いのは、池袋店10期の7階フロアだった。この時は南北に長い池袋店の子供フロアの7階の南と北に目新しい拠点を作るということになった。ここでは屋内子供遊具の「ぽんぽこ山」と大人用の「ウォーターバー」を配置した。今では一般化したミネラルウォーターを提供する「ウォーターバー」は、当時はまるで見たことのない拠点であり、大きな話題となったが、「ぽんぽこ山」も極めて斬新な試みであり、子供が登れる自然を模した緑の小山の上から渓流に水が流れ、亀の人形が置かれた遊具であったが、山のふもとの穴から山の中に入ると、そこはドーム天井も壁もミラー貼りでストロボライトが子供の動きに合わせて点滅し、照明の色も変化する都会的なディスコやクラブの世界で、子供たちは飽きずに夢中で遊んでいた。こんな企画が通る百貨店の西武には大きな可能性を感じた。
西武百貨店販売促進部装飾の岡本さん、柵山さんは簡単にはOKを出してもらえず、千本ノックの世界で、「もっと面白いアイディアはないか」という要求がいつも出され、子供売場には子供の嫌いなセロリや人参の巨大オブジェやカブトムシやイモムシの椅子のオブジェなど、わくわくするような自由な創作物をあちこちに配した。当時の販売促進部は、今やバイブルとなった「西武のクリエイティブワーク」が出版され、わくわく感と、これに関わることができるという誇りがあって、関わったメンバーは鍛えられていった。当時販売促進部の装飾担当だった松尾氏も同志だった。
そのころ渋谷ではシード館、ロフト館といった新館が作られた。これにはスーパーポテトの杉本貴志氏などのスターデザイナーが多くかかわっていた。B館とロフト館の間の通りは「間坂(まさか)」と命名され、敷石が貼られ、ホログラム地蔵、モダンな石灯篭、猫のナナコ像などが設置された。これは池袋7階に置かれた昆虫オブジェの考え方を屋外で展開したものであり、通行人も楽しめるパブリックアートだった。ロフト入口左側のウインドウスペースの利用方法をめぐって様々なアーティストの案を図面化する仕事を依頼されたが、どれも決定に至らず、「どうするのだろう?」と他人事のように思っていたが、開店1か月ほどになって急遽、小坂氏自身が提案するよう指示が出た。ロフトのコンセプトは集積された素材の倉庫といったものであったため、これらを活かす提案として、2案を作った。1つ目のプランは白い薄布の後ろからL、O、F、Tのロゴ4文字がそれぞれ布を押し出して前にせり出すというプランだった。しかしOの文字だけはただの〇(マル)になってしまうので、これは不採用となり、もう1案のL、O、F、Tの4文字が音楽に合わせて回転してバラバラに壊れた状態になったり、再度回転、合体してLOFTと読める4文字になったりするものが採用された。しかしこの決定が出たのは、なんとオープンの2週間前だった。ロゴを動かすことについては社内にからくり時計やムービングPOPの専門チームがいたので問題はなかったし、BGM音楽はI&SとWAVEの力で高感度なものが作れたが、肝心のL、O、F、Tの4文字は普通の木や鉄やトタンなどで古びた素材感が出ず、どうしても、つるっとしたモダンなものになってしまう。そこで金物屋に1泊2日で泊まり込み、木の表面を焦がしたり、薬品で金属の表面をザラザラにしたりする技法を学び、美大の学生だった頃のように自分の手で、いかにも屋根裏部屋に放置されたもののような質感の4文字を作った。しかし作業はほぼ毎日徹夜状態で家には帰れず、行方不明になった息子を探しに父親が職場に来たりもした。10時開店の当日の朝5時ころ、岡本さん柵山さんが現場に現れ、「これが動かなかったらただのゴミだ」と言われ、「頼むから動いてくれ」と祈る気持ちだった。文字の回転に合わせてストロボライトがついたりBGMが流れるタイミングの調整が終わり、ほっと安堵し、数時間後の開店セレモニーであったが、自分は完成と同時に路上に止められた車の中で休んでいたら、さすがに20代の体にもこたえる3晩徹夜の疲れから爆睡してしまい、起きた時には開店セレモニーは終わっていた。
このムービングロゴはその後さらに大きなサイズで梅田ロフトや香港ロフトでも採用され、名物化していったが、田中一光氏の作ったブランドロゴをバラバラにしたり戻したりという事は異例だったが、あまり意識もしていなかった。結果的に多くのデザイン賞も頂いたが、当時は追い詰められていて、よほどのことをしないと突破できないと思っていた。ロフト館は2階のロフトバーを作っていた杉本貴志氏はまるで鉄橋でも作るかのような大量の鉄骨を現場に持ち込んで溶接していたり、田中一光氏によるグレーとブルーのPタイル貼りの階段など、どこをとっても現代美術のような館で、他社では見られないような、想像を超える館であった。これは同時期にできたシード館も同じだった。どちらもスターデザイナーたちの競演だった。自分はその後、西武が企画し毛綱毅曠が手掛ける釧路ムーの仕事に入るのを楽しみにしていたが、人事異動で西武チームからそごうチームに異動になってしまったが、西武での熱い経験が今も生きていることを感じる。
