稲田哲夫氏は1967年に入社し、本部広報・渋谷店販促・本部広告制作・池袋店販促・仙台店販促・本部広告制作・渋谷店販促・浜松店販促・本部販促企画など47年間を販促畑で勤務した。入社時点の宣伝部は諸先輩や上司など新聞社・出版社・映画会社など外部からの専門人材の集合体であり入社式後に配属された最初に「経糸」「緯糸」を漢字で書いてみろといきなりのテスト。要するにその席に座われば外部からはプロとみなされるのでしっかり勉強しつつ仕事に取り組め!と、激を受け。最初は本部販促で統括業務であったが、そのあと本部広報を経て西武渋谷店の広報に異動となった。
20代を広報兼催事担当としたシブヤ西武では、日々スチールカメラ片手に店内を廻りニュースのネタを探し(それがニュースに値するかはプレスレリースを見た記者次第)週次の手書きプレスレリースとキャビネ版紙焼き写真をセットに150通の宛名を手書きし発送していた。とは言え、当時のシブヤ西武はファッションでは、パリとシブヤ西武しかないサンローラン・オーオクチュールサロンがあり、秋冬に本国と同じコレクションショーで顧客のオーダーを受けていた。ヤングターゲットではB館地下1階のライフスタイルゾーン、Be-inや、若き世界的ファッションクリエイターが集うA館中2階の伝説の売場「カプセル」など情報発信基地として認知されており、催事においては是非シブヤ西武でと持ち込まれる企画も多く選別に苦労した。
倉俣史郎氏がデザインした空間で日本のスターデザイナーのアイテムが唯一展開されていたカプセルは世界的に認知度が高くデヴィッド・ボウイ氏やマークボラン氏などは、当時日本初のスタイリストとして取材に来ていた高橋靖子氏から鋤田正義氏の写真展として持ち込まれ、お二人とも来店時にはカプセルに立ち寄り買物もされていた。それ以外でも永六輔氏の反鯨尺企画や萩尾望都氏ほか少女漫画家の個性店シリーズで萩尾さんブレンドのコーヒーがおいしいので売ってみようという話からオモトコーヒーなる商品を会場で売ってみたり、アニメーターの久里洋二氏は、いっぱいあるセル画を売ってみたいという事でB館入口で本人が店主の臨時ショップを設けたり、黒柳徹子氏とは店内雑貨ショップキュリオ内カフェで打ち合わせ中「何で店内放送って右から左に流れるように喋るの?私にもやらせて」と言われそのまま放送室にご案内し、店内放送を実施したりなど思い出は多い。
広報では当時パブリシティ催事費というお金があり、例えば選挙があればモデルを調達し選挙日の投票呼びかけ告知プラカードを持たせ各社写真部にアプローチしたりもした(文字の記事では1段記事でもA館1階のエスカレーターに並ばせれば3段以上になった)。そんな中でも想い出深いのは1970年11月25日、当時のシブヤ西武では新春を海外で迎える顧客のため11月に水着センターが開設されておりそのPRとして新作水着PRESS発表会を什器を撤去した中2階のカプセルで計画、前日までの各社アプローチでは数十社が取材予定だったが、来店したのは共同通信の老カメラマンが一人だけだった。不審に思って各社に問い合わせると「それどころじゃない、三島が市ヶ谷防衛庁に」。ということが分かった。水着写真どころか新聞各紙は演説する三島由紀夫の姿が覆いつくした。しかし三島氏らの「盾の会」の有名な制服も実は、西武百貨店の五十嵐九十九氏デザインによるオーダーメイドのものであった。
シブヤ西武は山の手の裕福な後背地に育った2世が日本橋ではなく渋谷で降りて来店してもらう「ストップ・日本橋」のために、若い世代に受け入れられるように、今でいうサブカルチャー的な催事に数多く取り組んでいた。しかし後日、自身の後任者から「先日xxTVのキャラクターショーを開催したら大動員ができた。」という数の多さだけを自慢する連絡が来て、つい「自分の8年間は何だったのか」と感じてしまった。シブヤ西武では「次は何をするんだ」「面白くない」「スケールが小さい」など企画には随分ケチを付けられたが、結果に対し否定される風土が無かった事がありがたかったという。結局シブヤ西武で学んだことは「自分で考え実行することが仕事=自分で考えなければ仕事は無い」と併せ、横の広告チームが先輩から徹底指導されていた「またお知らせビラを作りやがって=売りたい企画・商品を並べただけ、それが顧客にどんな価値があるのか変換し表現するのが仕事だ」という教えは広報として「5W1Hを知らせるだけではダメであり、記者にはその企画の社会的意義や価値があると思ってもらえる視点がプレスレリースでも必要」という2つの意識が、その後に稲田氏の仕事の土台となっていったという。とは言えシブヤ西武で仕事をしていると、次から次へと色々な方々が企画を持ち込んでくれ、選別をしていればそれなりに仕事が埋まってしまうことに正直「なんだかな~」と感じていた頃に、本部広告制作への異動話がきた。
当時の本部販売促進部は本間部長をヘッドに広告制作課は吉田健一氏が担っていた。初めての広告制作の仕事は、池袋店のその週の表情を8つの企画に絞り新聞3段で紹介する3段八ツ割広告を担当、広告制作の仕事には広報での視点が役に立ったという。広報では記者にその企画・商品の社会的意義・価値を感じてもらうためのプレスレリースを作り記者が採り上げてくれなければ記事にならないが、広告ではディレクターなりコピーラーターに自分が感じた視点をプレゼンすることで発信(着地)することはでき。という事が素直に嬉しかったという。とは言え、担当のコピーラーターであるプロジェクトワイの泉山氏とは数文字で数時間の激論にも。この広告制作時代では、1978年に始めた新聞10段での書籍枠型広告「ピックアップ西武」は日経広告賞も受賞した記憶に残る広告企画となった。月1回新聞10段を使いライフスタイルの違う外部の女性10人に「対象月の生活にステキだと思われる商品10点」を店舗で選んでもらい10人×10点=100点についてそれぞれ説明を受け、その中から皆で選んだ18点をレマンのコピーライター坂本進氏(岩崎俊一氏の師匠)に、エッセイのようなお手紙のような「人とモノの親しみに満ちた結びつき」として1983年まで続いたが、10段の新聞にこれだけの人数と時間をかけた丁寧な広告作りは当時でさえ例が無かった。後に亡くなられた坂本進氏をTCCで顕彰する際に吉田健一氏からモノ(商品)を通した新しい企業広告を目指していたとの話を伺った。
1979年池袋店の10期完成を期に、池袋店において月1回タブロイド判16ページ50万部という大きなスケールの折込み広告「THE SEIBU Special」が企画され、稲田氏は広報経験やエディトリアル型媒体を担っていたなどから池袋店へ異動することとなった。ここではタブロイド判16ページ「THE SEIBU Special」の編集室に配属、当時の吉田健一氏からは無理しないようにと送り出されたが、かなりの仕事量だったという。デザイン統括は浅葉デザイン室、キャッチコピーと見出しは西村事務所、取材と記事は当時社内報を担当していたスピックといったメンバー。しかし世の中にはワープロもFAXも無い時代、店舗内の赤字を集約後、夜になってから凸版印刷などへ出向き、赤字を入れ、営業が写植に廻す、訂正が上がる、再度確認→写植→確認と続きトイレに立ったら窓が明るく、次にトイレに行ったらもう暗く、など結構なハードワークが常態化していった。そんな中にあって、当時の米谷店長からはライフスタイルマーケティングに基づく情報の整理をレクチャーされたことは大いに参考になり、ありがたかったという。
1981年には、翌年仙台に開店するクレディセゾンの店舗、ams西武仙台店の販促課長として開店準備室に異動した。ams西武仙台店は2000坪強程度の小さな店で、百貨店ではなくフッションライフストアというコンセプトだったこと、販促活動に対して当時の店長・志村肇氏の理解を得られたことから、営業販促活動よりも地域の若者に新鮮で大きな店として見られるよう、言葉で言えば宣伝活動に取り組んだ。その一つが1984年に「うれしいね、サッちゃん。」に呼応して企画、発行した「仙台若者紳士録」であり、個々バラバラに活動している街の若者520人が自分は何を考えているかというメッセージを掲載した。また共感すれば互いに連絡が取りあえるよう、今ではありえないことだが、本人の住所や電話番号も掲載し、仙台中心の書店で数週間売上トップとなった。この本については、取材は全てボランティア・印刷も印刷会社が安価な廃棄予定の紙で協力してもらえ、店のちらし製作費レベルで着地することができた。後日談的にはここから派生し、さとう宗幸事務所と連動しFM仙台と西武の経費折半でFM番組とリンクしたA4版76ページのライフスタイルマガジン「BE」へと発展させることができた。こんなことも小さな店だから皆で挑戦できることがたくさんあった。また仙台店はクレディセゾンにとってグループ統一のクレジットカードで即時与信、即時発行のSEIBUカード(後のセゾンカード)を発行したエポック的店舗であり、カード獲得も懸命に行った。
1985年後半に再度本部広告制作へ異動となり、セゾングループの企業広告「1986-お手本は自然界」や百貨店テーマ広告「1987じゃない」「1988ほしいものが、ほしいわ」「1989よりみち主義」を担当した。グループ広告も百貨店テーマ広告も、堤会長が自分の時代認識をクリエイターに提示しそれを受けクリエイティブディレクターとしての糸井氏が総合プランを提案し、浅葉氏がグラフィックに着地させるという流れであり、堤会長とクリエイターのつなぎ役の仕事がメインとなり、自分が考え企画するという仕事で無かったこともあり店舗への売り込みを行った結果所沢店販売促進に移動することとなった。
1990年には所沢店販促課長(販売計画兼務)となる。所沢は自分が住んでいる街でもあり、開店の告知広告である松永真氏の李朝絵画ベースの太陽と月のデザインと(WALZのロゴも松永氏)、日暮真三氏の「昼と夜、私は2つの顔を持つ」も本部で自分が担当していて、さらにセゾングループ広告の「お手本は自然界」では花時計で所沢店をテーマになどなど、店舗コンセプトは熟知していたものの販売計画と販売促進の兼務業務は人事出身の店長の効率化施策の一つでもあったが、売りたい立場とそれは顧客にどんな価値がという本来相互が切磋すべき業務を一人格で、という部分は自分としてはストレスがあった。
1993年本部販促の白石部長の要望で再び本部・宣伝企画担当へ呼び戻された。この時は水野社長時代から和田社長の復帰で販促の方向性も難しくなってきていた。販促活動は結局経営者が何を重視して何を顧客に発信して行きたいという経営方向と表裏一体なので、堤会長の引退とセゾンの終焉により、いままでの販促活動とは違うアプローチを模索しつつも、「おいしい生活」で池袋のローカル企業が場外ホームランを放ってしまったため単発の広告としてはそれなりの評価も、新たな「らしさ」を獲得できず遅れてきた周回ランナー状態で苦しい仕事だったという。
その後稲田氏は2度目の渋谷店で販促課長を経て1996→97年年浜松店販促課長(販売計画・予算管理兼務)に赴任した。浜松店は既に閉店することが決まった後の移動だったが、浜松では導入を見送ったクラブ・オンに依存しない顧客対応施策として、閉店後浜松店売場社員が他店に移動しても何も知らないと言われて困らないよう、「私のお客さまづくり」や「VPスキルアップ」などに取り組む。浜松は西武として初の大型閉店だったことから、閉店1年前から閉店に至る各部の業務を全て記録・保存され、本部への商品要請内容や、販促で言えば販売員の顧客リストの回収・処分方法、閉店後の商品対応、(保証書の保証期間や近隣他店への案内状まで)や閉店セールの展開内容など、ここで行われたことが後に続く地方店閉店ラッシュのマニュアルとなった。閉店当日には朝からテレビ各社が中継をしたがったが、「市の中心部が空洞化することが街のプラスになるニュースですか?」と訴え、報道各社の理解を得られたが、前日1社が基幹社の指示でカメラを設置するとの回答で、取材協定を解除した。
1998年本部メディア制作担当に異動。時代はIT活用時代となり、西武百貨店ホームページをシステム部の田口現社長と共に立ち上げ、2000年cissを導入した。自分では以前から百貨店の情報発信方法には疑問を持っていた。これは1売場に分解すれば月間数百万円程度の規模であり、売上の3%程度の販促費で売場の個別企画の媒体物を製作することは難しいと思っていたからである。例え売場が伝達したい企画があったにせよ、企画書を書き・部門の企画担当に承認を得、それらを束ねて月次で販計・販促との協議を経て、チラシなり個別DMとなる作業プロセスでは、顧客に届くまでの時間も手間もコストもかかり、これに見合う売り上げも得られない。そこで売場の人間が起案する個別企画書の内容を、顧客に向けたセールストークとし、かつIT技術を活用することでチェックする承認・決裁も簡略化させ、DM、POP、 HPなど各種媒体への掲載依頼も可能とする「顧客インフォメーションシステム」を作成した。これにより、売場が顧客にDMなどでアプローチをする場合も低コストで少数部数から可能となるはずであった。しかし売場の企画・商品を自分たちの判断で素早く知らせることができるはずが、時間の経過とともに販売業務にプラスした余計な付帯業務扱いにされ、結局消えて行ったことは残念に思うという。これについてはシステム構築途中で入口を「セールストークを様々にアウトプット出来る個別企画書」とすべきであったのが最終形態の「ハガキ」としてしまったインターフェイスの失敗であり何とか修正したかったが、途中まで進んだシステムは軌道修正できず残念な結果となってしまったことは心残りだった。
この後、本部メディア制作ではセゾングループ解体に際し、それまでハウスエージェンシーのI&SのVCIルームがセゾングループの予算により委託を受けて預かっていた約3000枚のアーカイブしたポスターを返却したいと言い出し、これを西武そごう社内で管理すれば、今まで同様、どこか地方の倉庫に保管し数年後に廃棄されることが十分予測されたため、ちょうど開設された凸版印刷の印刷物博物館に寄贈することにした。ここでは媒体物の現物は温度管理された倉庫で保管しデジタルデータと4×5ポジフィルムでも保管してくれた。しかし数年前、これらの作品にデザイナー、コピーライター、写真家、モデルなどのデータがないという指摘が凸版から出てきた。博物館収蔵には現物とともに著作者データも必要であるからだった。古い販促メンバーなどにも問い合わたりDNP文化振興財団の協力を得たりで何とか1200枚の作品はそれらが判明したが、古い物については不明なものが多く残ってしまった。
かつての西武の販促の仕事は自分で考え、自分でチームを作り、チームで実行案を創り、チームで作ったプランの決済を社内承認させ、着地させてきた。販売促進に業者という言葉は無く、印刷会社もチームの一員であり、仕事を着地させるためにはチームの責任者としての役割も大きかったと感じている。そんな西武の仕事の流れを一変させたのが2003年に始まる「販促要員の削減と販促業務の外部化」だった。上層部から見れば販促とは単に広告物を作るだけで、一部社員の指示により作業すれば良いだけの業務と見え、様々な外部と試行錯誤しつつ最終的には印刷会社との共同プロジェクトとして販促人件費の削減プラス既存コスト内での本部及び店舗への作業人員配置が行われ、自分で考え・自分で企画し・自分で着地させるという西武のマーケティング及び西武の広告活動の取組みはここで終焉したともいえる。それにしても、この取り組みに対しては後のTOPPAN会長までなられた金子慎吾氏が新たなビジネスの可能性として真摯に取り組んでいただき、2025年まで続けて頂けたことに、大変感謝している。

