E4 元西友会長、元ファミリーマート副社長、元日本チェーンストア協会会長 渡辺紀征 (撮影日:2025/07/03)

90年代のバブル崩壊、不動産価格暴落から、西武は西洋環境、西友は東京シティファイナンスが経営危機に陥る。不良債権は年を追って幾何級数的に拡大していった。渡邊氏はファミリーマートから、木内氏は良品計画から古巣に戻って改革にあたった。堤氏は先頭に立ち銀行回りを始め、渡邊氏は98年には交渉のため、メイン行へ200回、他行へ200回行った。結局00年2月に子会社株式の売却資金等でようやく17行合意に至った。堤氏が西友社長をやられていたのは75年~86年。最盛期には朝会から営業会議、常務会、開発会議、若手の夜の会等1日5回ご指導いただくこともあったという。ウォルマートと組む事にも賛成されたが、日本市場への理解の不足を懸念されていた。また、緑屋買収の際も緑屋小型店統合には関心なく、これからはクレジットの時代と、強力な与信と債権回収部隊は他社にない緑屋の強みだとして、セゾンカードを立上げた。セゾンの名称はその後グループ名になった。西武名称の西友大型店は開発時の地方行政等の要請で始まった。オズ大泉西武ではフランスポンピドーセンターのシースルーエスカレーターも作った。堤流の「質販店」は豪華な店舗や高額ブランド品ではなく、良質廉価なPBや時代感覚に合った商品を売る店であった。地方で買収した会社も上から目線を禁じ、相互協力を重視した。大阪花博では久保田鉄工と組み、池にモーゼの十戒の道を作り、芸能山城組のケチャ祭りを行い、ITハイテクに傾斜した他社出展とは一線を画し、今の時代に通ずる感があった。