H5 元有楽町西武店長、商品部婦人雑貨部長、渋谷店シード館 田中世津子 (撮影日:2025/10/09)

田中世津子氏は1981年6月にアルバイトから正社員として西武百貨店に入社した。バイヤー志望であったが、最初は渋谷店ユーロブティックでハンティングワールドを担当。当時B館2階にあったユーロブティックではほかにもジバンシーやランバンを扱っており、B館2階の中央には競合店には無い西武PBのラルフローレンやアルマーニやミッソーニがあり、盛況であった。その後田中氏は渋谷店でダンヒルのショップマスターになる。その後1987年に渋谷店人事部の教育担当となり、3年ほど西武百貨店渋谷店で新入社員や派遣社員対象の販売員教育を担当し、他社でも西武の販売員教育の講演会などに呼ばれていた。そのあと1990年から再度西武渋谷店のシード館に行き、故石川館長の下で課長としてマネジメントに携わる。シード館は店舗で商品買い付けを行っており、マルティーヌ・シットボンなども展開していた。同時に日本ブランドのオリジナル開発も行い「シードバイ」をつけたオリジナルブランド商品を開発した。タケオキクチなどもシードバイ商品の売り場があり、競合店との差別化が図られていた。1991年にようやく念願のバイヤー職となり、その後商品部ではコーディネーターや婦人雑貨部長などを歴任した。このころVMDが店ごとにばらつきがったため、渡米してアメリカ流のVMDのノウハウを学び、全店のVMDの基礎を共通化した。教育マニュアルや教科書を作り、全店を巡回して指導したりした。2001年に商品部婦人雑貨部長となり、ロンドン、ニューヨーク、パリなどに出張してバイヤーとともに商品買い付けを行い、西武渋谷店A館地下1階にワンフロア型の婦人靴売場を作った。ここはブランド別展開を排し、平場展開型にしたため業界からの注目が大きく、売り上げ規模も大きな話題の売場となった。A館地下1階は現在は食品フロアになっているが、この当時西武渋谷店は食品売場をやめて地下2階にイートインとテイクアウトを兼ねたセタンジュを作り、ファッション領域を強化する方向性が出されていた。この年はニューヨークで9.11が起きて、時代の転換点でもあった。このあと田中氏は有楽町西武の店長となり、2002年から退社する2007年まで店長を務めた。有楽町西武は田中氏が店長の時代に最後の大改装を行い、A館をファッションの館、B館を美の館として、B館に体の内側と外側の美のためのショップを導入。漢方薬局なども導入した。この計画に伴い化粧品はすべてB館に統合する計画であったが、結局有力な外資系化粧品ブランドの合意が取り付けられず、化粧品がAB2つの館に分散する結果となり、構造改善コンセプトの徹底は未完に終わった。この後、田中氏の退社後、有楽町西武は野上店長を最後に閉店となった。現在に比べ当時の働く女性の多くはファッションやビューティーに多くのお金を使う風潮があり、ファッションは雑誌メディアの影響も強く、ブランドの力が強かった。今の女性の多くは情報に流されない自分流コーディネートの力もあり、自分の成長への投資にも力を入れていて、ファッションやアクセサリーに当時ほどのお金を使わなくなった。それだけ百貨店で女性に売れるものが少なくなっていると感じる。田中氏は西武退社後、化粧品メーカーや当時テナントビル運営に力を入れ始めたJRやローラ・アシュレーやコットンパールを扱うアクセサリーの会社の役員を経験後、たまたま2週間の小笠原諸島での滞在中に、小笠原に移住したガラス工芸作家ご夫妻の工房でステンドグランス工芸を体験し、東京に帰った後1年間ほどステンドグラス教室に通い、自分自身がもとから好きだったモノづくりの道を選び、ステンドグラスと写真作家となり、現在は自宅工房で作品作りをしていて、ここ10年間は10回ほど個展やグループ展に出品し、西武百貨店時代に学んだ多くのことをベースに「小さなアートのある暮らし」展を開催している。元の部下たちも訪ねてきてくれるので、楽しく作家活動を続けている。