君塚章子氏は入社2年目の1977年頃から当時は西武美術館だけであった文化事業部で美術館の管理や友の会組織の仕事を始めた。当時紀国役員指示で更なる文化拠点開発が始まり、池袋店8FTKビルにスタジオ200開設が決まった。1979年、当初は映画興行中心で計画されたスタジオ200は建築基準法に抵触する通路幅が指摘され、興行場認可が取れず、新井、君塚、森の三人で活用方向を検討し、森氏は芸能山城組経験から音楽を、自分は学生時代から取り組んでいた映画を新井氏が全般を担当した。いずれの企画も興行ではない短期間展開の企画が中心で、コミュニティカレッジの体験教室という位置づけで、講演会を付け足したりもした。長い演劇公演でも1週間か10日であった。映像作家の松本俊夫氏のアドバイスで実験映画の上映で企画をスタートした。当時は若者の人気は邦画より外国映画であり、欧米各国や韓国などアジア映画も上映した。音楽では武満徹氏など大御所より若手の登場が多かった。美術館連動企画や当時勃興したビデオアートも多く扱った。ビル・ヴィオラ、寺山修司氏の作品上映や講演会も開催していた。舞踏では大野一雄氏や田中泯氏も登場した。当時、さらに映画関連事業の展開を希望していた堤清二氏の意向を受け、六本木WAVEの地下のスペースに方向性を検討した結果、ライブハウス案と映画館案が出て、文化事業部では映画を押し、結局映画館のシネヴィヴァン六本木を作る事になり君塚氏は六本木シネヴィヴァンに異動となった。当時輸入盤レコードはタワーレコード位であった時代にWAVEは輸入盤中心の現代的な音楽の館となり、映画館も美術館同様、コンテンポラリー路線で行きたいと考え、当時はアカデミックな岩波ホール位しかなかった200席程度のミニシアターを作ることになった。同時期に東急レクシエーションもミニシアターのシネマスクエア東急を作った。当時はマイナーな自主上映は他には草月会館やアテネフランセなどが取り組んでいた。70年代から80年代は世界中で色々なタイプの映画が製作されていて、それらの日本での興行を成功させたかった。提案資料に入れた「映画への愛」というフレーズが評価してもらえたようだ。杮落しの「ゴダールのパッション」、コッポラプロデュースの「コヤニスカッティ」、タルコフスキーの「ノスタルジア」、ゴダールの「カルメンという名の女」、「特別な一日」、ダニエル・シュミットの「ラ・パルマ」、ビクトル・エリセの「みつばちのささやき」やルイ・マル作品など後年まで語り継がれる名作を多数上映した。また上映記録を残しておこうと当時あまりなかったページ数のプログラム冊子も毎回作成した。最初は、映画をめぐる武満徹氏と蓮見重彦氏の対談を目玉企画として行った。その後は東急文化村シアターなどミニシアターはブームとなったが、シネヴィヴァンはその草分けだった。セゾングループでは西友も映画館に参入し、キネカ大森などキネカ名の映画館ができ始めた。セゾングループでは映画制作にも参入し、「火祭り」、「星屑兄弟の伝説」、安部公房の「友達」が制作されたが、製作ビジネスにかかるコストは大きかったため、継続は難しくなった。自身は1985年から90年の間、シネセゾンで毎年ビデオ会社とともにカンヌなどで映画の買い付けを行うようになり、セゾン系映画館で買付作品が上映された。このころ、セゾングループにはシネセゾン系、キネカ系に加え、旧テアトル東京のテアトル系映画館もできたが、シネセゾンを含め西武の文化事業全体に影が差し始め、このころヘラルドにいた方から誘われ、海外の映画企画に製作投資するNDFという会社の設立にかかわることになり、西武セゾングループを離れた。7年程でこの小さな会社も財政が厳しくなり、当時隆盛していたディレクTVに行ったが、スカパーなどとの競合が厳しくなり解散。邦画制作会社で海外に作品配給する業務に従事し、ここも厳しくなりWOWOWでコンテンツの仕事に従事することになった。思えば、アート性の強い映画の仕事の原点はスタジオ200であった。ここで自らの基礎が作られ、有意義な仕事につくことができた。セゾングループで映画も演劇も美術も多くの意欲的なスタッフが取り組んできたことで残すことができた価値ある仕事は、ぜひ次世代に伝えてほしい。
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西武百貨店文化事業部、シネヴィヴァン六本木、シネセゾン
君塚章子
(撮影日:2025/10/06)
