廣村正彰氏は76年から田中一光デザイン室にアバイト入社し翌年からメンバーとなった。既に坪内、佐村、木下氏はメンバーで常にメンバーは10人までだった。朝の掃除とコーヒーミーティング、昼食、夕方ミーティングの1日3回のコミュニケーションは緊張したが重要な成長機会となっていた。だが今の世代はそれは受付けない。田中先生は絶対音感と同じ、絶対造形感のようなものがあり、コンマ数ミリの修正を要求し、結果見違えるような結果が生まれた。それは戦中戦後に色やデザインの美を真綿のように吸収したからだと言われていた。事務所の仕事はグラフィックアートと企業の仕事に担当が分かれていて、自分は企業の仕事中心で、セゾングループ基幹8社の仕事が多く、IKKSという別会社まで作った。セゾンはトップ企業故に他にもトップのクリエイターが沢山集まっていた。田中先生はカネボウ時代、西欧化志向の風土に馴染めず、国際革命路線の共産党を離れた堤清二に出会え、同志に出会えたのが幸運だった。売場環境にもコンセプトを求めるデザイン志向の西武文化について堀内会長の要請でセブン幹部にレクチャーした事もある。今は無印は離れたがエディション型のロフトの環境には今も従事。イ・オリョン氏の「縮み志向の日本人」は的を得てる。今後日本は「縮充」でコンパクトな暮らしの贅沢さを作る必要がありそうだ。
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田中一光デザイン室、廣村デザイン事務所
廣村正彰
(撮影日:2025/07/02)