E5 元パルコ社長、元西武百貨店販売促進部、元JIMA事務局 伊東勇 (撮影日:2025/07/07)

伊東勇氏は69年に西武百貨店に90人の同期大卒と共に入社後、西武百貨店の全国百貨店共同仕入れ機構JIMA事務局に配属され販促業務に従事。一方当時パルコでは増田通二社長の下で小池一子、石岡瑛子、山口はるみの「三人娘」が企業広告を発信し、チラシ関連は草刈順氏のJKデザインから独立したプロジェクトY、シュガーポット、スタジオタムの中のスタジオタムが請負っていた。増田氏はダイレクトにクリエイターとコミュニケートし、時代を拓く広告活動をしていた。その頃JIMAで伊東氏は全国百貨店でNHK大河ドラマ展等の共通催事を巡回させ、地方百貨店上層部から信頼を勝ち得ており、JIMA4年半在籍の後、入社した百貨店本部販促に戻り、読売・毎日の全ページに西武のメーカータイアップ中元広告を掲載した。そこに店舗網拡大中で販促要員不足のパルコから声がかかり、百貨店上司の勧めもあってパルコに異動。しかしパルコでは百貨店と違い商品、テナント広告の仕事はなく、営業に異動。当時はパルコ20店舗の内4~5店の改装が毎年あり、それらの社長提案がそれぞれ5回程やり直しになっていたが、2年半に渡り経験のない仕事で心苦しい思いをした。その後吉祥寺店長で本部を離れ、今度は地元商工会議所との間で年間休日日数を減らす交渉を成功させ、45歳で役員として本部に戻り、営業企画室が作られ、国内、海外、さらにファッション定点観測で知られるACROSSの3部門を統括。その後札幌店長に赴任し、1年5か月で全テナントの契約更改と改装を行い、札幌初のワイズのファッションショーをJR操車場で北海道新聞と共に開催したりした。再度本部企画室長として、堤氏からつかしん、川崎、だるまや、心斎橋の4店舗をパルコに移管したいという要求に対し、心斎橋のみ受取る事で了解を取った。またセゾングループ各社役員の会合で企業ガバナンスを取上げていた中、堤康二氏のパルコ役員を打診され、小さな会社に堤家からの2人の役員就任は問題になるとして清二氏に退任を求め、了解された。また堤清二氏から大物政治家主催の政策的な財界人会合で講演するよう要請され、「公園通りの若者の定点観測動向」を説明し、鮮度ある報告で大好評となった。セゾングループが厳しくなり、パルコも多角化事業を見直し、自然減分の補充をしない事で要員削減し、IBM常務を社外役員に迎え、外国人投資家比率を上げた。セゾングループ協業で出店していたシンガポールも売却。社長に就任したが、短期で辞めるつもりで社員ミーティングを重ね、社内改革を行った。自分は社内外の多くの人々に助けられやってこられた。多角化事業では増田氏は慎重派で堤氏要請のホテルや館内映画館も取組んだが、増田氏本人は演劇好きで、西武劇場(後のパルコ劇場)では利益の出ない堤氏要請のミユージックトゥデイ等も開催。コストがかかる唐十郎演劇もあり、伊東氏自ら田中一光氏に広告媒体サイズ半減の要請に行ったりもした。