F2 元西洋環境開発リゾートレジャー事業部、同秘書室 和田俊一 (撮影日:2025/08/05)

和田俊一氏は、1982年に縁あってメーカーから西武都市開発(後の西洋環境開発)に入社。当時の同社は「スペースからライフへ」をコンセプトに掲げ、宅造やマンションなどの不動産事業からリゾート開発へと業容を拡充していた時期であり、氏もそうした事業に従事することを目的に入社したとのこと。
東京・目白の尾張徳川家本邸を移築した「八ヶ岳高原ヒュッテ」をシンボルとして別荘開発に取り組んでいた「八ヶ岳高原・海ノ口自然郷」に音楽堂を建設し、その「こけら落とし」としてスヴャトスラフ・リヒテルのコンサートを開催。また、三浦市諸磯のシーボニアマリーナの運営に加え、後に合併する大洋不動産興業(横浜市)が手がけていた逗子マリーナや葉山マリーナ(味の素所有)の運営受託などにも着手した時期であった。さらに、西武百貨店、西友をはじめ、プリンスホテル、ヤマハ音楽振興会、日本郵船などから幅広く人材を獲得し、体制強化も合わせて行われていた。
1986年には大洋不動産興業との合併により社名を「西洋環境開発」に変更。三井や三菱グループから社外重役を招聘して関係強化に取り組んだり、東海観光(株)や東京テアトルなどの上場企業の株式を取得したりして、「ホテル西洋銀座」を中心とするホテル事業、全国5か所のゴルフ場、さらにはフランスの本社を置く「地中海クラブ(クラブ・メッド)」と提携して、国内のヴァカンス村(北海道、石垣島)の開発にも着手した。
また、旧西武化学時代から続いていた不動産・マンション事業においては、ボンエルフ(バンプ式車道)を日本で初めて導入した「汐見台ニュータウン(仙台市)」や、京都の自然や文化を取り入れた「西京桂坂ニュータウン」など、今日でも先駆的といえる住宅開発も継続して取り組んでいた。さらに、コンシェルジュ機能(フロントサービス)を取り入れた「ビルヌーヴマンション」など、現在のタワーマンションに必須となっているサービス機能を先駆的に導入したマンション開発にも余念がなかった。
氏は業務秘書として、社内の調整業務をはじめ、セゾングループ各社との連携、対外的な渉外業務などに奔走。常に終電で帰宅する多忙な日々が続いたと振り返る。
しかし、1990年から91年にかけて実施された不動産総量規制により、金融機関の「貸しはがし」が始まり、事業は行き詰まった。さらに、西洋環境開発傘下にあった「ピサリゾート」管轄の那須のゴルフ場やグアム島リゾート開発など、収益化まであと4~5年という案件も重なり、大変厳しい状況に陥った。また、社内における旧不動産部門とリゾート開発部門の間でのコミュニケーションにも課題が多かったと回想する。