奈良岡氏は1985年、西武百貨店演劇準備室に入社。当時有楽町に出店していた有楽町西武は渋谷店よりも狭隘で文化施設の無かったため、セゾングループとして銀座・有楽町地区にも文化やソフトの施設を作りたいという堤会長の意志で銀座イチイチプロジェクトスタート。銀座一丁目の映画館旧テアトル東京跡地に劇場、ホテル、映画、飲食等の複合施設建設計画を進めていた。演劇に強い関心のあった堤氏は館内レストランの名称にも演劇関連のネーミングをしていた。ゼロベースで劇場を作り、誰も未経験の海外招聘公演、ピーターブルックの「カルメンの悲劇」でオープニング公演を行うという挑戦的な計画は誰にとっても極めて困難なものだった。劇場内の緞帳、銀座セゾン劇場開場ポスター、「カルメンの悲劇」のポスターなどは田中一光氏が手掛けた。若者向の安価な当日券、ジーンズシート、ボックスシートなど鑑賞券販売も先進的で、セゾン劇場チケット販売を契機にチケットセゾン、後のイープラスも作られた。民芸、文学座による杮落しの後、「カルメンの悲劇」がスタートした。セゾン劇場は西友等、劇場を支えたセゾングループ各社側から見ると、彼らの事業利益の多くを支出させられる存在であり、厳しい視線を浴びていた。2年後に開催したピーターブルックの「マハーバーラタ」は10時間を超える作品で3日かかりのサイクル公演と1日10時間通しのマラソン公演の2種類での公演となった。20数か国から来日した演者のため日に幾度も成田空港に出迎えに行ったり、時差のため夜中2時に海外と連絡を取り合ったり、小道具通関に手間取ったり、モスリムの演者のためハラルフードをケータリングしたり礼拝スペースを設けたりと業務は多忙を極めた。坂東玉三郎の「エリザベス」は演出のヌリア・エスペル以下、ヨーロッパ演劇界の最高峰チームが舞台装置や衣装や時代考証に携わり、原作を基に日本版を独自解釈して美しい日本語演劇として作られた。これは海外招聘劇団ではなかったが、実質的には多国籍チームによって作られた公演となった。当時、新聞社の文化欄記者からは「次作は何ですか」と期待されるプレッシャーで、奈良岡氏は更なる話題作を求められ、英国のロイヤルシェイクスピア劇場招聘を考え、伝手がなかったので新大久保にあったグローブ座経由で6年間渡英し交渉し日本招聘にこぎつけた。これに成功した後、奈良岡氏はセゾン劇場を休職しロイヤルシェイクスピア劇場での経験を積む。セゾンの風土は強い意志をもった人にはチャンスが与えられた。英国ロイヤルシェイクスピア劇場での経験やネットワークはその後の英国ナショナルシアター招聘にも役に立った。英国演劇以外にもロシアのタガンカ劇場、リュービーモフ、ギリシャ悲劇の「フェードル」等も招聘した。また黒柳徹子さんの公演も携わった。銀座セゾン劇場はじめホテル西洋銀座、映画館のギンザテアトル西友、飲食施設等、文化の複合施設だったセゾングループの銀座テアトルビルの各施設は当時どれも厳しい経営状態であった。
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元銀座セゾン劇場
奈良岡江里
(撮影日:2025/08/18)