G2 元銀座セゾン劇場、㈱パルコ演劇事業部制作チーム ゼネラルプロデューサー 田中希世子 (撮影日:2025/09/08)

田中希世子氏は1987年に西友に入社。当時はセゾン文化事業が全盛時代で、シネ・ヴィヴァン六本木やWAVE等が大好きでシネセゾンで映画配給をしたいと思った。この年は銀座セゾン劇場が3月にオープンした年であり、文化の仕事がしたいと問い合わせたら、それには西友に入社するよう言われた。この年約300人の大卒新入社員の半数が文化関連志望だったという。当時西友で映画制作もやっていたので、映画を希望したが、結果的に10人ほどが文化関連に配属され、自身は銀座セゾン劇場配属となった。87年4月から11年間宣伝を担当した。当時は藤田氏と横川氏と自分の3人が宣伝担当であった。セゾン劇場の媒体物はオープニングなど一部を除いて、堤氏の意向で写真ではなく通常、イラストレーションをメインビジュアルにしていて、滝野晴夫氏やペーター佐藤氏など主に5人ほどが田中一光氏のディレクションでイラストレーションを描いていた。
銀座セゾン劇場は当時珍しかった劇場自らがプロデュースする劇場であり、前例はPARCO劇場(西武劇場から西武PARCO劇場に改称、85年より現在の名称)位しかなかった。セゾン劇場は好景気な社会を背景に世界各国の一流の演劇を上演するという使命を与えられ、未経験の若者たちだけで手探りで制作することになった。杮落しの「カルメンの悲劇」以降ピーター・ブルック演出作は4作品を招聘した。さらにRSCのエイドリアン・ノーブル、スペインのヌリア・エスペル、88年にはコメディ・フランセーズも招聘、89年にはレニングラード・マールイ・ドラマ劇場、90年のタガンカ劇場など招聘したカンパニーはどれも超一流。さらに野心的なプロデュース作品も多く、当時存命だった18代目中村勘三郎氏の「きらら浮世伝」の番宣活動の際には、明石家さんま氏に、銀座セゾン劇場の客の入りが少ないことをネタにされたり、タモリ氏には「カルメンの悲劇」をパロディにされたりするなど、世間的にも注目を集めていた。安部公房氏の作品は「榎本武揚」、手塚治虫氏原作の「陽だまりの樹」は三演した。これら海外招聘と国内自主プロデュース作品をあわせて年間約12本を上演していた。利益のことはあまり言われなかったが、約800人のキャパシティの劇場は1カ月で2万人が入るが、客の入りはかなりのばらつきがあった。89年からは黒柳徹子氏のコメディ・シリーズを毎年上演し、黒柳氏はこのシリーズの作品で読売演劇賞の大賞も受賞した。また蜷川幸雄氏はスランプの時期にセゾン劇場で上演した真田広之氏と松たか子氏の「ハムレット」が素晴らしかったことで復活し、ロンドン公演まで行った。自主公演にこだわったセゾン劇場という看板は99年に下すことになり、貸劇場のル テアトル銀座として再スタートした。自身はその2年前98年に、もっとクリエイターと直接かかわる仕事をしたいという希望が叶えられ、宣伝から制作に異動。2000年にセゾングループ内で演劇事業を行うパルコに転籍となったが、黒柳作品はパルコがル テアトル銀座を借りて継続開催した。結局銀座セゾン劇場はル テアトル銀座として2013年まで残ったが、建物取り壊し でその姿を消した。緞帳も壁もカリン材木組みの床も飛行機のような座席も、すべて高級で、あの貴重な劇場がなくなってしまったのは本当に残念だった。しかし立派すぎる客席は、ピーター・ブルックなどにとっては、彼の常打劇場ブッフ・デュ・ノールのような簡素なベンチシートと違うため、何千万円もかけて客席シートの上に鉄骨を組み、すり鉢状の構造にしてベンチシートを置いたり、「マハーバーラタ」では、舞台で裸火を使うため消防署と交渉したり、演出上の都合でその都度大きなコストをかけて環境を変えた。
一方のPARCO劇場は1973年にオープン(当時の名称は西武劇場)、唐十郎氏や寺山修司氏や安部公房氏が作品を書下ろし、「MUSIC TODAY」 など堤清二氏と増田通二氏のこだわりの演劇やパフォーマンスが続々上演されていた。また福田陽一郎氏による木の実ナナ氏、細川俊之氏の「ショーガール」はVol.16まで人気を博し、ニール・サイモンの翻訳劇は、三谷幸喜氏に大きな影響を与えた。90年代以降は小劇場系の若い作・演出家の登竜門的存在にもなった。旧PARCO劇場は458席であったが、2016年に取り壊され、2020年には新たに636席に拡大され再スタートとなった。オープニングは旧PARCO劇場で山﨑努氏と渡辺謙氏が演じた「ピサロ」を、新劇場では渡辺謙氏と宮沢氷魚氏が演じた。もう企業メセナが求められる時代は過ぎ、赤字を出さないで演劇界に貢献しながらパルコの情報発信 を行うPARCO劇場は残った。現在パルコ社員がプロデュースする公演は、パルコ劇場にとどまらず、外部会場でも上演されている 。パルコ・プロデュース作品は年間15~20本。25年4月には新国立劇場で「アメリカン・サイコ」を上演。秋には東京芸術劇場で「ヴォイツェック」を上演する。制作メンバーは2000年ごろ5人で年間20本制作しており、激務が続く状態だったが、今は約20人。演劇事業部全体で約40人。その他音楽、映画、出版、コンテンツ、ゲームといった文化エンタメ系業務は100人超の規模になっており、パルコの旗印としての事業になっている。堤、増田時代のDNAを引継ぐ寺山修司作品は、当時は書下ろし作品であった「青ひげ公の城」なども新たに上演、「毛皮のマリー」は美輪明宏氏により繰り返し上演され、また未上演であった「海王星」を初演するなど、当時と変わらず積極的に取り組んでいる。一方で今の新たな渋谷PARCO館内には旧渋谷PARCO・パートIの外壁に設置されていた、五十嵐威暢氏デザインのPARCOロゴのネオンサインが使われ、エントランスのドアノブも昔の真鍮のものが使われている。今もパルコ創立当初からの宣伝美術は、原点として大切にされている。当時の横尾忠則氏らの手による西武劇場のポスターは古びることもなく、今も高値で取引される名作となっている。
昔セゾン劇場で制作助手やチケットを担当していた長坂まき子氏は現在「大人計画」社長として松尾スズキ氏や宮藤官九郎氏や星野源氏などをマネジメントしているが、長坂氏とは、「大パルコ人」シリーズをこれまで4作一緒にプロデュースしてきた。この11月には第5作を上演する。他にも「劇団☆新感線」を大きくした細川展裕氏やつかこうへい氏の作品を手掛ける岡村俊一氏などは、かつての東宝の中根プロデューサーと蜷川幸雄氏のような横の同世代繋がりになってきた。自分たちの次の世代は就職氷河期で人が入ってこなかった。次が20~30代まで飛んでしまうが、次世代の感性に期待している。人々の元気や心の支えとなる演劇を次世代に伝えたい。東宝で「千と千尋の神隠し」を舞台化したプロデューサーはまだ30代の若手であり、これをやろうとしたのは20代のころだったはず。英国ではRSCが「となりのトトロ」を舞台化して大ヒットしている。日本アニメを原作にした演劇コンテンツの可能性は広がっている。これはかつて国を挙げて取り組んだ結果、不発だったクールジャパンの新たなステージになるかもしれない。パルコでも若い世代が次の時代のコンテンツを生み出していってほしい。