G5 元セゾン劇場、岡山芸術創造劇場 劇場長 渡辺弘 (撮影日:2025/09/16)

渡辺弘氏は1984年雑誌シティロードの演劇担当記者から、セゾン劇場初代支配人大河内氏にスカウトされ西武百貨店演劇準備室に入社し、制作部門に配属され、大河内氏に多くの人脈を紹介された。最初の担当業務は「カルメンの悲劇」の次の演目の大島渚氏プロデュース作品で、すでに脚本もできていた。さらに大島渚氏のあとは鈴木忠氏や市川森一氏など大物作家作品の自前プロデュース企画が2カ月単位で予定されていた。当時のセゾン劇場の立ち位置は松竹や東宝の商業演劇とコクーンなどの中規模劇場ができる間の端境期であり、700席という日生劇場の半分の規模の劇場はあまりなく、業界から冷たい視線を浴びていた。そこに大河内氏が亡くなったことで、堤氏は自分で責任を引き受ける覚悟を決めた。開業を前にして、それまで大河内氏が進めていた初年度からの全ての計画が白紙化せざるを得なくなったからだ。そこで堤氏主宰で、美術館の紀国氏や映画の山口氏たちの企画会議に呼ばれるようになった。堤氏はかねてから懇意の民藝の宇野重吉氏と文学座の杉村春子氏に対し、セゾン劇場のピンチを救ってほしいと直接要請。お二方はこの要請を引受けてくれた。それでピーターブルックのあと、突然新劇メニューが登場したので、演劇界からは怪訝に思われた。そのあとは三島由紀夫の「朱雀家の滅亡」、これはパンフレットに使った写真が遺族の了解をとれず、使えなくなったりもした。次の市川森一氏の沢田研二ミュージカルは大入りだった。初年度次年度は五里霧中の大混乱の毎日を手探りで進んだ。だが最初のピーターブルックの「カルメンの悲劇」と2年目の「マハーバーラタ」が上演されると演劇界には大きな衝撃が走った。若者が安価に観劇できるジーンズシートを求めて徹夜行列も発生した。セゾン劇場の功績のもう一つは舞台上で裸火を使う実績ができたことだろう。消防署と1年がかりの実験と交渉の末、ようやく許可が下り、初めて舞台での裸火使用が許可された。まだ電子メールもない時代に舞台図面を郵送し、ヨーロッパ時間の昼間である深夜にヨーロッパのブルックたちとテレックスやファックスでやり取りせざるを得ないメンバーは大変だったが、後の演劇界に与えた影響は計り知れないものがあった。自分はこのあと東急文化村に行き、セゾン劇場を去った。そして松本市の劇場立上げに携わり、続いて彩の国さいたま芸術劇場の運営を行い、引退しようと思っていたら今度は岡山の劇場立上げに関わることになり、ずっとこの世界で生きてきたが、日本の演劇界のスタッフのシステムやキャスティングや興行システムなど独特なものはなかなか変わらなかった。セゾン劇場立上げの際に当初予定していたチケットぴあを押しのけて自前のチケットセゾンを立ち上げたことでチケット業界では凄い顰蹙を買ったが、これも元々は大河内氏の自前チケット発券という理想から始まったという。しかし理想やアイディアを障害を乗り越えて本当にやってしまうという力が当時のセゾングループにはあった。チケットセゾンは今のイープラスの前身である。初年度は今思っても生みの苦しみが何重にもなっておしよせてきたが、宇野重吉さんは「満杯にしてみせるぞ、見ていろ。」と言って本当に満席にした。ここでは宇野さんから多くのノウハウを学ぶことができた。杉浦春子さんの「欲望という名の列車」は結果的に杉村さんの「欲望という名の列車」の最後の舞台となった。こちらも満席となった。奇しくも銀座セゾン劇場のスタートは新劇とピーターブルックなど国際的な演劇がクロスする時代そのものとなった。演劇界の大きな変化が銀座セゾン劇場の混沌とした立ち上がりの中で起きていたのが、後になって気づいた。思えば堤清二氏と増田通二氏は若いころからともに演劇やパフォーマンスが大好きで、渋谷パルコの西武劇場でスタートした武満徹のミュージックトゥデイは、堤清二氏がセゾン劇場に持ってきたりもした。堤氏は文化的な家族や友人に囲まれていた。唐十郎などアングラの演劇ポスターを見ると西武百貨店の広告がついているものが多い。単なる資金提供だけではなく、堤氏はけいこ場に直接電話をかけてくるほど、熱心にかかわりをもっていた。他に映画にも関わったが、あの時代の人にとって演劇は特別のものであったようだ。堤氏は本気で大河内氏の後を引き継ぐ気でいたようで、宇野さんに対してもそう説明をしていて、宇野さんもそれに応えて色々と自分たちに教えてくれた。自分は30代半ばで他では体験できない、火中の栗そのものを扱うという貴重な経験ができたと思っている。