G8 元西武百貨店渋谷店ショップ販売部、テーラー(株)シィ オッジ 塩原徹 (撮影日:2025/09/18)

塩原徹氏は五十嵐九十九先生に憧れて、1971年西武渋谷店にテーラーとして入社。五十嵐氏が亡くなるまで行き来していた。1975年、渋谷店にもヨーロッパ直輸入既製服を販売するショップ販売部ができたため、高額品のフィッティングやお直しのため、当時注文服部門で最も若手だった塩原氏はショップ販売部へ異動。当時の扱いブランドは輸入代理店経由で、ランバン、ジバンシー、ディオール、ゼニア等のナショナルブランドだけであった。その後、ミラノ駐在部経由で、西武がジャンニ・ヴェルサーチ(’79年より店頭展開)ジャンフランコ・フェレ(’80年より)、ジョルジオ・アルマーニ(’82年より)と独占契約を結び、輸入を開始。これらの3ブランドもショップ販売部で展開することとなった。当時イタリアファッションの展開はレアで特にヴェルサーチの注目度は高く、ポパイ編集部からは頻繁に渋谷店に貸出要請があった。しかし、それまで原毛や生地輸入しかやっていなかった総合商社が将来を見据えて、これらイタリアファッションに関心を持ち始め、某大手商社がヴェルサーチと契約してしまった。怒った商品部は西武での扱いを中止しようとしたが、塩原氏は当時ミラノの3G(G・ヴェルサーチ、G・フェレ、G・アルマーニの3人の頭イニシャルがGだった)を減らしたくないとして、商社経由で売り場継続を主張し、その後も渋谷店で長く続いた。それまで商品部在庫で展開していたフェレやアルマーニも扱い量の拡大と卸売りのため、セゾングループのエルビスが輸入ディストリビューションをおこなうことになった。アルマーニもアルマーニジャパンができる1987年頃までエルビスが扱っていた。そのころの現地のミラノ駐在部と商品部へのロイヤリティは高く、ミラノの展示会(フィエラ・デ・ミラノ)では西武と名乗るだけで入場券無しでも各ブースに入ることができた。ミラノ駐在部と西武のバイヤーはイタリア社会とのコネクションも多く即断即決していた。渋谷店の顧客は芸能人や音楽家、デザイナーや写真家などいわゆる高感度の方が多かった。3Gをワンフロアで展開する西武は業界への影響力や波及効果が大きかった。ヴェルサーチは50歳で亡くなる。フェレはディオールのデザイナーとしても活躍をしたが、62歳で死去。その後、ブランドは消滅した。アルマーニも今月(9月)91歳で亡くなり、今後のブランドの行方が気になる。アルマーニは日本文化に深い関心を持っていた。自分の顧客で漆彫金作家の作品を参考品として、バイヤーがミラノ出張の際に持参したところ、断りなく図柄が使用され、困ったこともあった。日本の古い着物の色だしや柄など、伝統デザインから多くを学んだ偉大なデザイナーであった。また、西武の無印良品にも興味を持ち、来日の度に大量に購入されていた。自分が今までやってきて気付いたことは、成長するブランド(例えばヴェルサーチ)は小さいサイズから売れ始めた。イタリアサイズの44(ウエスト74cm)から売れた。感性豊かな顧客は細身で小柄な方が多いのである。やがてブランドが成長するにつれ、大きいサイズにシフトしていった。またアルマーニはテーラード(スーツ、ジャケット)の神様と言われたが、最近はスーツ離れが進み、カジュアル系の高額な中軽衣料にシフトしているようだ。雑貨中心のエルメスやヴィトンは影響は小さいかも知れないが、衣料品ブランドはどこも厳しい。どの百貨店も雑貨比率が上がり、衣料品比率は下がっている。ファッション業界全体の傾向であり、問題だろう。自分が憧れた五十嵐九十九先生は、若かりしころ貨物船に便乗してパリに渡り、ピエールカルダンのアトリエで修行したという。彼の代表スタイルはシングル1つボタン、腰ポケットは縦(フラップ無し)に切る、フロントビューをすっきりさせたもの。当時の紳士服生地は英国毛織物中心だったが、イタリアのゼニアの生地だけは独特の色出しと質感で新しさがあった。’74年、五十嵐先生のヨーロッパツアーでパリに行ったとき、抜け出して1泊だけミラノに行った。当時はアルマーニなど3Gデザイナーが世に出る前だったが、街ゆく人はパリより小粋なスタイルで、その後を予感させるものがあった。そんなイタリアファッション黎明期にミラノ駐在部が多くのデザイナーを見い出した。アルマーニの最盛期、西武渋谷店だけでネクタイの売上本数は9.500本、1億5千万円の売上高だった。プリントネクタイの買い付けは4㏌1と言われる4本単位の仕入れであり、売れそうな色柄は32本、難しそうなものは12本とメリハリを付けていた。ミラノでの買い付けは顧客ニーズに詳しい店舗メンバーとバイヤーが年2回出張して行っていた。当時のアルマーニの発注は独特で、同じ生地でダブルブレスト6ボタン、4ボタン、シングル3ボタン、2ボタン、1ボタン、更にサイドベンツ、センターベント、ノーベントと選べるようになっていた。つまり同じ生地でも国や店舗によって異なるモデルが展開されていた訳である。またアルマーニのワイシャツもソフト仕立てで襟がヒラヒラ跳ねやすいため、スナップダウンで見えないように襟を留めるデザインが提案された。日本発注は全てスナップダウンを選んだら大好評であった。次シーズンからは他諸国のバイヤーもそれに追従して、アルマーニのワイシャツはスナップダウンが世界の定番になっていった。アルマーニはミラノのリナシェンテ百貨店の紳士バイヤーとしてキャリアをスタートし、自分のブランドを立ち上げる前はシコンズやカラガンなど他ブランドのスタイリングを請け負っていた。アルマーニブランドが誕生する前、西武池袋店ではウオルト・アルビーニ(’75年ごろ)というデザイナーブランドを展開していた。ソフトスーツの元祖は、恐らくこのアルビーニだと思う。それまで自分はカチッとしたオーダースーツばかりを見ていたので、大きなショックを受けた。自分なりにこれをファッションショックと名付けている。今までに感じたファッションショックは、4度。
一番目 1970年、五十嵐九十九先生のハンドメードのスーツとスタイリング。
二番目 1975年、ウオルト・アルビーニのソフト仕立てのテーラード。
三番目 1979年、G.ヴェルサーチのアンコン仕立てのアースカラー。
四番目 1984年、ロメオ・ジリの根暗ファッション。
新たなファッションショックを待ちわびている昨今である。