H4 元西武百貨店西武大津ホール、西武所沢店、有楽町西武販促装飾 榎彰子 (撮影日:2025/10/08)

榎彰子氏は1981年に入社。この年は八尾出店を控え採用数が多かった年であった。榎氏は西武大津店の大津西武ホールに配属された。このころ関西の西武の文化関連施設は大津ホールしかなかった。上司は元読売テレビの西村恭子氏であった。西村氏は田中一光氏の京都芸大時代の同級生で、同じ演劇グループ、劇団アトリエ座で衣装や舞台装置などを担当していた。この演劇グループからは坂東玉三郎の衣装を手掛けていた舞台衣装デザイナーの緒方規矩子氏も輩出していた。西村氏はアートやカルチャーが生活に入ってくることで心を豊かにするという意識を持ち、関西や大津からも文化の情報発信を意識していた。大津は信楽焼や京都の京焼や西陣織や友禅など伝統工芸と密接に結びついた地域で、これら工芸を現代美術としてとらえ現代に置き換えていく新機軸の展覧会の実行を考え、出身母校の京都芸大のネットワークを活かして、1980年にクレイワーク展と銘打ち、陶芸作家が作った現代アート表現の展覧会を開催、さらに染色展、ファイバーワーク展、そして第2回クレイワーク展(土・イメージと形体展)といった意欲的な展覧会を大津独自企画として次々展開した。
一方で大津ホールでは東京からの巡回展として、ボテロ展やジョージア・オキーフ展なども開催した。その後徐々に西武百貨店店舗は関西でも八尾店、つかしん店などが誕生し、それぞれ八尾西武ホール、つかしんホールなどの文化拠点も増えていったが、八尾やつかしんは音楽や映画や演劇企画も多く開催したのに比べ大津では美術展が主として開催された。
西村氏は当時盛んになり始めた女流作家の個展にも特に力をいれ、フリーダカーロやジョージア・オキーフなど突出した女性の展覧会が多かった。またパルコの増田社長の奥様が力を入れて紹介および作品収集をしていたニキ・ド・サンファルの展覧会を関西で開催したいと考え、増田さんのコレクションを中心に多くの作品を集めた展覧会を開催した。2015年に東京で大規模なニキ・ド・サンファル回顧展が開催されたときも日本での展開歴史の最初期に大津西武ホールでの展覧会について触れられていた。
同時期西武セゾングループの関西進出は本格化し始め、西友も山科と長浜楽市にも大型店出店と文化催事が出来るホールができ、山科には文化教室も作られた。これらの講師集めも西村氏の仕事となり、関西での百貨店以外も含めたセゾングループ全体の文化活動を見るため、当時西武セゾングループの関西本部があった中津駅前の新大阪ホテルの一室に関西文化担当室が作られた。このころは西洋環境開発も京都ロイヤルホテル、住宅地の西京桂坂の開発などもあり、単なる住宅開発ではない文化的な街づくりが求められた。ここは京都芸大のキャンパスも近く、多くの関西の文化人に好評を博した。
自身は1994年まで大津店に在籍していて、のちに西武所沢店で販売促進装飾を担当した。ここも西武大津店と同じく西武グループの大きな拠点で、西武鉄道本社や西武ライオンズ本拠地でもあり、これら鉄道グループの方々との交流も多く、鉄道や球団タイアップイベントも頻繁に開催していた。
その後有楽町西武に転じたが、このころは既に有楽町の経営も厳しくなっていて、アートフォーラムはなくなっており、晴海通りに面した大きなウインドーをコストを抑えて演出することなどで苦労した。ここは元々朝日新聞社のビルであり、搬出入口が小さく、装飾物の搬出入には苦労が伴い、上層階に映画館があり、オールナイト上映の時などは音を出す制限がかけられ、通常夜間行う躯体工事ができない日があったり、消防の規制も厳しかった。
大津時代は堤家発祥の地であり地域顧客の期待も大きく、さらに県内唯一の百貨店であったため自治体との協力関係も大きかった。滋賀県の魅力度向上のために西武のノウハウや力に大きな期待が寄せられていた。県主催の信楽陶芸祭にも要員を出して協力していた。この地域の文化に西武が大きな役割を果たしていたことは、2023年3月に刊行され、2024年本屋大賞、坪田譲治文学賞など数々の賞を受賞した宮島未奈の『成瀬は天下を取りにいく』でも紹介されているが、その後は単に地域を市場として扱う企業が大半であり、地域文化発展への貢献を意図していた企業は少なくなっている。