斉藤均司氏は1970年、池袋本店紳士ヤング売場に入社した。9期改装前の紳士フロアは2階にあった。当時の競合百貨店にはヤング売場という売場はまだ存在しない時代であり、百貨店初のVANや百貨店初のジーンズを展開していた。これら池袋でのヤングへの取組みがその後の渋谷Be-inに繋がった。70年代は売場面積日本一、売上日本一を合言葉に老舗百貨店に追いつけ追い越せの時代だった。衣料品ではサンローランをはじめとするトップファッションの導入、エルメスをはじめブランドの輸入が始まった。9期改装で紳士服は4階に移設され、競合店にない独自商品としてライフスタイルを豊かにする商品が揃ってきた。9期では、紳士フロアの「エレガンスプレタ売場」の初代係長になった。標準的な売場分類にはないセレクト型の売場で、ここでは輸入ブランドからセレクトしたアイテムを展開していて、日本で唯一直輸入を始めたアルマーニやラルフローレンもこの売場から日本デビューした。その後メジャーになるブランドの先見性ある先駆けの売場であり、業態の原型でもあった。思い切った挑戦であったが、当時は知名度がないため売上は予算比の7掛けと、数年間低いボーナス評価で苦戦したが貴重な体験をさせてもらったという。
80年代の10期になって、紳士スーツ売場係長時代に何か独自の新しいことを提案するよう指示があり、斉藤氏は当時は上下セット商品だったスーツの上下を別売りにするセットアップスーツ売場を提案した。本部からは上下別売りではスーツじゃないと反対されたが、このセットアップスーツ売場は好調で、売上も軌道に乗り紳士服業界のスタンダードになった。当時は無謀な係長の提案を受けて計画を承認した米谷店長はじめ度量のある上司がいたおかげでこの計画が着地できたとのこと。
80年代は多様化と成熟化がテーマになり、拡・脱・超百貨店が合言葉になった。
おいしい生活をキーワードに、スポーツ館を皮切りに遊休知美全領域での専門性を高め、問屋依存を打破して自ら仕入れて売る新たな業態を作る事が求められた。ブランドの押付けでなくパーツごと別々にアイテムの組み合わせを楽しめる販売手法を模索し始め、紳士服フロアでもインポートカジュアルブランドセレクト売場の「アーリーオン」が誕生した。ここでは斉藤氏自ら買付に出張したエンポリオアルマーニをはじめ、バスコやポールスミスなどがアイテム・パーツ毎に展開され、それらをコーディネートすることができた。この考え方はその後の渋谷シードになり、渋谷ロフトにも繋がっていった。自前にこだわり、旧来型の、問屋ごとのブランドショップの派遣社員が同一ブランドでのコーディネートをお勧めする販売方式とは全く違う売場になった。
その後本部に転じ、インテリア企画担当を経て商品開発部に転じ、ハビタ館撤退後の戦略推進、塚新はじめとする地方出店や有楽町計画、インターコンチネンタルホテルブランド商品の開発などに従事した。また水野社長が手掛けたジャパンクリエイティブや東京クリエイティブの商品開発にも携わった。
80年代後半からは渋谷シード館長や当時伊勢丹メンズ館と競い合っていた渋谷店紳士服部長を歴任した。渋谷店紳士服は新宿のバーニーズと同様インポートブランドのセレクト売場など先進性で人気が高かった。
90年代中盤から和田体制下で再度本部に戻り、商品部紳士服、婦人2部(ヤング)、婦人雑貨部長などを歴任。この時期婦人ヤングの集積ゾーン「アップルシティ」を開業した。このネーミングには苦心したが結果的に大ヒットになった。しかし斉藤氏はその成功を見届ける前にまた紳士に異動となってしまった。
2000年以降、斉藤氏は旭川、渋谷、札幌、所沢、また渋谷と複数の店の店長を歴任した。多くは課題を抱えた店であり、構造改善の実施や構造改善後の手直しの仕事が発生した。旭川と所沢は大型の構造改善投資を行ったが、所沢では2階の中央にあった1階との吹き抜けに床を張って2階中央部を売場化し、コストもかかったがこれで高効率な一等地が生まれた。
斉藤氏の店づくりは地域密着とボトムアップを信条としていた。店主体で計画を練り上げることにこだわり、現場発想で働く仲間の希望をかなえることで店内の絆が生まれていった。所沢の地元イベントでは店内でバンドを組み、自身でギターを弾いて歌を歌ったり、女性社員のコーラス隊がクリスマスソングを歌ったりして地元に好評だった。
斉藤氏は2009年にはISP社長に就任。2015年まで務め、今まで経験のなかったディベロッパーの仕事を初めて経験し新たな領域を勉強することができたという。
退職後斉藤氏は、フリーランスのコンサル業として、企業さんのマーケット開発を手伝ったり、アドバイスなどを数社の依頼を受けて行っている。
斉藤氏は、これからの百貨店は若手にとって大変だと言う。百貨店の存在意義が問われているからだ。地方ごとに象徴としての百貨店は存在し得るかもしれないが、池袋や新宿といった街単位に複数の百貨店は存在できない。今後は複合商業施設として自営もテナントもミックスしていくだろうが、わざわざ来てくれるためのコンテンツが不可欠だし、富裕層顧客に対応できる外商やラグジャリーブランドも大切だが、中間層のニーズは厳しくなっていくから百貨店はどこを目指すのか難しい。今後は文化の象徴としての老舗の本店は別にして、大型の総合品揃え型は難しい。ターミナル型なら1地域1か所の複合商業施設は生き残るだろう。化粧品と食品は必要だろうから、今進めている池袋店の方向性は十分ありうると見ている。あとは西武が得意とした西武らしい遊休知美体をどう取り組むか。当時社内で言われていたモノからコトへ、コトからココロへ。という部分が未完成のままだと語る。その意味ではコミカレのようなものは大切だという。しかし池袋店で言えばレストラン街はテナント区画になってしまい手が出ないため、貧相になっている。無印やロフトや書籍もレストラン同様ヨドバシテナントとして継続しているが、お客様がわざわざ出向く目的になるような西武時代に入ったベットラオチアイのような魅力があるレストランやテナントが入らないと施設全体の集客に響くだろう。来店動機に繋がる生活を楽しくする魅力あるコンテンツありきだと語る。
