西村佳也氏が西武の仕事に関わった最初は、西武百貨店地方店の出店広告からだった。浅葉克己氏と浅葉事務所の飯島氏と西武の吉田健一氏の4人組で富山を皮切りに全国の西武地方店の出店計画に合わせて全国を巡回した。浅葉克己氏は「ドサマワリ」と呼んだ珍道中だった。これは元々は出店広告プレゼンテーションの際に、デザイナーの浅葉克己氏に対し「ちゃんと現地を見たのか」という質問が堤清二氏から出たため、以後全国の出店計画地に行くことになったもの。富山、大津、静岡、浜松、つくば、函館、豊橋など建設中の店舗を見てからそれぞれの市内を回った。大津の広告は特に印象的だった。琵琶湖のほとりにでき始めた坂倉準三氏設計の大津店は外階段が強い印象のものであり、まるで「琵琶湖の恐竜ビッシー」のようだという話になり、「6月某日びわこに出るぞ。」というコピーを思いつき、TVCFは女性モデルが水中からヌーッと顔を出すものを作った。これは不穏なBGM音楽も含めインパクトが強烈で、このCFを見て子供が泣き出したという話が聞こえてきた。しかし大津店閉店に際し、宮島未奈氏の「成瀬は天下を取りに行く」で地元に文化を伝えた西武の閉店を惜しむ小説を書き、本屋大賞を取ったほど、地域にとって重大な影響を与えた存在だった。この大変だったが楽しかった「ドサマワリ出張」は昼だけでなく、夜も地元のバーを訪問し、女性たちから情報を仕入れた。旭川は女性が強い街で、お酒に強い女性も多く、離婚率が高いとか、あまり知られていない情報も入ってきた。静岡店では「胸ふくらんできた。」というコピーを胸のところに書いたティーシャツを配布した。豊橋店開業広告ではロケでプーケットに行ったが、ロケハンのためにボートで島の周りをまわっているうち西村氏は日射病になってしまい、肺炎まで起こし、現地で入院する羽目になった。吉田健一氏はロケ終了後、同時期にセブ島で撮影していた別のロケの方に行った。このプーケットにはロープの上を行ったり来たりするサルがいて、面白いので撮影しておいた。これは帰国した後、西武百貨店旅行事業部のTVCFに使えることになり「そろそろ旅に出るか。」というコピーを後からつけた。
ドサマワリの次に来た仕事は渋谷店の改装だった。ここでは「触れてほしい。」のコピーで、システィーナ礼拝堂の神の指とアダムの指とが触れ合おうとする場面の指のアップを横山明氏のリアルイラストレーションで描き、指の間に稲妻を走らせたり、女性が噴水の水に唇を近づけたりした。この広告で渋谷店が強く印象付けられる結果となったが、コピーにあわせた艶めかしい刺激のあるビジュアルになった。今の時代だったら百貨店改装オープン広告として認知されるかどうかわからない感覚的な広告だったが、会長プレゼンテーションは1案のみであり、一回でOKになった。思えば会長プレゼンはいつも1案だけで、趣旨はちゃんと会長に届いていた。
その次が年間テーマ広告の「女の時代。」このころちょうど、フェミニズムの隆盛が話題になりかけていた時で、女性の社会進出が求められ始める前であり、このキャッチコピーが合言葉になった。女性の時代じゃなくて、「女の時代」というストレートなコトバが響いた。このキャンペーンの動画映像には、当時女子マラソンランナーとして注目されていたゴーマン美智子氏に出演してもらい、ロサンゼルスでロケ撮影した。当時は少ない人数でのロケであり、3分と長い撮影だったため、西村氏自身がレフ板をもってゴーマン氏が走るのに並走したが、あまりに早くてついていくのに必死だった。この年のTCC年鑑は真木準氏が編集長だったが、この動画が応募に間に合わず困った。堤清二氏は当時から、日本では女性の力が社会に生かされていないという意識を持っていた。「女の時代。」はそんな当時の日本社会に一石を投じた。その後は「女の時代かぁ。」などと男性が嘆くように語るCFも数本作られ、西村氏自身がナレーターを務めたりした。しかしその後女性首相が誕生するまで半世紀もかかった。
西武の広告文化は「おいしい生活。」から変化し、それまでのものとはかなり方向が変わった。吉田健一氏、田中一光氏、本間滋氏、吉田臣氏、岩崎俊一氏など多くの西武の広告の担い手がすでに鬼籍に入ってしまった。今の時代に西武の広告は忘れ去られているが、西武の広告以後、我々の生活文化は変わった。西武がやってきたことは生活の中に沁み込んでいる。西武が言ってきたことが我々の普段の生活文化になってしまい、西武の名前は消えても空気になって存在している。広告は小説と違い、時代を作ってきても記憶に残ってはいない。自分は広告の仕事しかやってこなかった。「触ってごらん、ウールだよ。」も「なにも足さない。なにも引かない。」も「触れてほしい。」も「女の時代。」も残っていないが、それらが導き出して来たのが今の暮らしではないだろうか。そういう意味では決して無駄なことをしてきたわけではないと思う。それが広告というものだと思う。そしてそれらが戦前、戦中、戦後の生活文化を作り、歴史のⅠページになっていく。今はコピーライターの数は随分増えたようだが、いずれにせよ西武のおかげで充実したコピーライターとして誇りを持てる仕事ができたと思っている。
