佐野勝也氏は1987年西武渋谷店趣味雑貨部に入社し、この年11月にロフト開業とともにロフト館勤務となる。佐野氏は東京外語大スペイン語科でスペイン語演劇に取組んでいて、セゾン文化と堤清二氏への憧れが強く、西武を志望したという。学生時代からスペイン語でフェデリコ・ガルシア・ロルカの戯曲に取組んでおり、卒業旅行に行ったスペインで、この活動が新聞で紹介されたことで、入社前からロルカ三部作をスペインで上演することが決まっていた。入社2年目の88年7月には渋谷シードホールでロルカの「イェルマ」を上演し話題となった。また8月にはスペインの演出家ヌリア・エスペルがセゾン劇場の招きで来日し、同じく「イェルマ」を上演するのに協力し、佐野氏もこれに協力した。エスペル氏は他にも日本で井上ひさし氏や坂東玉三郎氏の舞台演出も手掛け、佐野氏もこれに協力した。11月には佐野氏の劇団は代官山で「イェルマ」に次ぐ「ベルナルド・アルバの家」上演にこぎつけ、良く89年1月に三作目の「血の婚礼」を上演する運びだったが、昭和天皇崩御に伴う演劇自粛により、これは実現できなかった。この時期に劇団メンバーはスペインに渡航しはじめ佐野氏も4カ月の休職願いを出し、渡西。ロルカ三部作をスペインでスペイン語劇として上演し、長年の夢を果たした。奥様の素子氏もスペインで合流した。
長い休暇を取った後、復職ができたので、次の勤務先はどこでも良いと思っていたら、場所は遠いと言われ、沖縄より遠いか尋ねたら、もっと遠いと言われ、結局スペインであった。このころ何度かのスペイン展を行う中で西武のスペイン商材は増えていたが、欧州駐在事務所はパリ、ロンドン、ミラノにしかなかったため、90年に佐野氏が初代スペイン駐在所長に任じられた。最初の事務所は当時セゾングループにあったインターコンチネンタルホテルのカスティジャーナホテルの一室に置かれた。このころ佐野勝也氏は素子氏と結婚し、夫婦でスペインに赴任した。8月には駐在事務所は高級住宅地サラマンカ地区のクラウディオコエージョ22番地に引っ越した。当時の商材はマドリッドの宝飾店ヤーネス、バレンシアの宝飾、アルマンド・マルティネスやテキスタイルのラファエル・カタラ、トラディショナル家具のヴィジャ・ガルネロ、バルセロナのモダン家具のインディカーサや文具雑貨のペパ・パペル、マヨルカ島の靴のヤンコやファルーチなど産地はスペイン全土に広がっていた。他にも駐在事務所の裏には今も日本で展開するファッションのシビラや他のブティックが軒を連ねていた。スペイン展ではバルセロナオリンピックのマスコットキャラクターを作ったジャビエル・マリスカルなど、多くの異才がスペインにあふれていて、これらを次々と佐野氏は開拓していった。
しかしこのころから西武百貨店はリストラモードに入り始め、92年のバルセロナオリンピック開催を待たずにスペイン駐在に閉鎖命令が出たため、スペイン駐在の存在期間は3年に満たない結果となった。帰国後佐野氏は西友国際業務部に出向となり、シンガポールと香港への西友出店を目指してこれら両国との往復を繰り返したが、結局この計画は着地に至らなかった。再度西武百貨店に戻った佐野氏は和田体制下でのシステム化業務の一環としての販売訓練課で業務マニュアルハンドブック作成などに従事するも、96年に退社。一旦親族の会社に就職するも、小島章司フラメンコ舞踊団から舞台演出の依頼を受け、この世界に復帰。出身母校の東京外語大の教育プロジェクトである外国語演劇にもアドバイザーとして招かれる。2008年には早稲田大学大学院修士課程に進学。これは佐野氏の学生時代には国内で殆ど知名度の無かった画家の藤田嗣治がバレエ「白鳥の湖」の日本初演の舞台美術を製作していたという事実を知り、いつかこれを調べ、事実を証明したいと考えていたからであった。6年の期間を経て佐野氏は早稲田大学で文学博士号を取得し論文となった。この佐野氏の活動により、事実は確認され、東京バレエ団によって、この最初の藤田の舞台美術による白鳥の湖が上演された。一途な佐野氏は、パリで最も有名な日本人となっても、結局日本では最後までアウトサイダーであった藤田嗣治へのシンパシーを感じていたのかもしれない。
佐野氏の没後、素子氏は二人の子供を連れて、元のスペイン駐在部の建物を訪ねたところ、その一階には佐野氏が見出して日本に導入したスペインマヨルカ島のシューズブランド、ファルーチが出店していて、彼の足跡が今も面々と続いていることに改めて気づかされた。佐野氏は堤清二氏に憧れて西武に入社し、渋谷シードでのロルカ上演や休職してスペインでのロルカ上演の際などに堤氏に手紙を書いていたが、堤氏からは若い世代の佐野氏への活動を応援しているというメッセージをもらってそれを大切にしていたという。
I3 元渋谷ロフト、スペイン駐在部 佐野勝也氏(勝也氏夫人素子氏) (撮影日:2025/11/08)
佐野勝也氏は1987年西武渋谷店趣味雑貨部に入社し、この年11月にロフト開業とともにロフト館勤務となる。佐野氏は東京外語大スペイン語科でスペイン語演劇に取組んでいて、セゾン文化と堤清二氏への憧れが強く、西武を志望したという。学生時代からスペイン語でフェデリコ・ガルシア・ロルカの戯曲に取組んでおり、卒業旅行に行ったスペインで、この活動が新聞で紹介されたことで、入社前からロルカ三部作をスペインで上演することが決まっていた。入社2年目の88年7月には渋谷シードホールでロルカの「イェルマ」を上演し話題となった。また8月にはスペインの演出家ヌリア・エスペルがセゾン劇場の招きで来日し、同じく「イェルマ」を上演するにあたり、佐野氏もこれに協力した。エスペル氏は他にも日本で井上ひさし氏や坂東玉三郎氏の舞台演出も手掛け、佐野氏もこれに協力した。11月には佐野氏の劇団は代官山で「イェルマ」に次ぐ「ベルナルダ・アルバの家」上演にこぎつけ、翌89年1月に三作目の「血の婚礼」を上演する運びだったが、昭和天皇崩御に伴う演劇自粛により、これは実現できなかった。この時期に劇団メンバーはスペインに渡航しはじめ佐野氏も4カ月の休職願いを出し、渡西。ロルカ三部作をスペインでスペイン語劇として上演し、長年の夢を果たした。奥様の素子氏もスペインで合流した。
長い休暇を取った後、復職ができたので、次の勤務先はどこでも良いと思っていたら、場所は遠いと言われ、沖縄より遠いか尋ねたら、もっと遠いと言われ、結局スペインであった。このころ何度かのスペイン展を行う中で西武のスペイン商材は増えていたが、欧州駐在事務所はパリ、ロンドン、ミラノにしかなかったため、90年に佐野氏が初代スペイン駐在所長に任じられた。最初の事務所は当時セゾングループにあったインターコンチネンタルホテルのカスティジャーナホテルの一室に置かれた。このころ佐野勝也氏は素子氏と結婚し、夫婦でスペインに赴任した。8月には駐在事務所は高級住宅地サラマンカ地区のクラウディオコエージョ22番地に引っ越した。当時の商材はマドリッドの宝飾店ヤーネス、バレンシアの宝飾、アルマンド・マルティネスやテキスタイルのラファエル・カタラ、トラディショナル家具のヴィジャ・ガルネロ、バルセロナのモダン家具のインデカーサや文具雑貨のペパ・パペル、マヨルカ島の靴のヤンコやファルーチなど産地はスペイン全土に広がっていた。他にも駐在事務所の裏には今も日本で展開するファッションのシビラや他のブティックが軒を連ねていた。スペイン展ではバルセロナオリンピックのマスコットキャラクターを作ったハビエル・マリスカルなど、多くの異才がスペインにあふれていて、これらを次々と佐野氏は開拓していった。
しかしこのころから西武百貨店はリストラモードに入り始め、92年のバルセロナオリンピック開催を待たずにスペイン駐在に閉鎖命令が出たため、スペイン駐在事務所の存在期間は3年に満たない結果となった。帰国後佐野氏は西友国際業務部に出向となり、シンガポールと香港への西友出店を目指してこれら両国との往復を繰り返したが、結局この計画は着地に至らなかった。再度西武百貨店に戻った佐野氏は和田体制下でのシステム化業務の一環としての販売訓練課で業務マニュアルハンドブック作成などに従事するも、96年に退社。一旦親族の会社に就職するも、小島章司フラメンコ舞踊団から舞台演出の依頼を受け、この世界に復帰。出身母校の東京外語大の教育プロジェクトである外国語演劇にもアドバイザーとして招かれる。2008年には早稲田大学大学院修士課程に進学。これは佐野氏の学生時代には国内で殆ど知名度の無かった画家の藤田嗣治がバレエ「白鳥の湖」の日本初演の舞台美術を製作していたという事実を知り、いつかこれを調べ、事実を証明したいと考えていたからであった。6年の期間を経て佐野氏は早稲田大学で文学博士号を取得し論文となった。この佐野氏の活動により、事実は確認され、東京シティ・バレエ団によって、この最初の藤田の舞台美術に基づく白鳥の湖が上演された。一途な佐野氏は、パリで最も有名な日本人となっても、結局日本では最後までアウトサイダーであった藤田嗣治へのシンパシーを感じていたのかもしれない。
佐野氏の没後、素子氏は二人の子供を連れて、元のスペイン駐在部の建物を訪ねたところ、その一階には佐野氏が見出して日本に導入したスペインマヨルカ島のシューズブランド、ファルーチが出店していて、彼の足跡が今も面々と続いていることに改めて気づかされた。佐野氏は堤清二氏に憧れて西武に入社し、渋谷シードでのロルカ上演や休職してスペインでのロルカ上演の際などに堤氏に手紙を書いていたが、堤氏からは若い世代の佐野氏への活動を応援しているというメッセージをもらってそれを大切にしていたという。



