斉藤敦夫氏は1985年堤清二氏の文化活動に憧れて西武池袋本店に入社し、婦人雑貨部に配属となり、10年間にわたりハンドバッグ、婦人靴、企画担当など婦人雑貨でキャリアを積んだ。この期間に池袋新1期改装が行われ、婦人雑貨では婦人靴を1階から2階に移動し面積拡大した。95年にはサンシャイン60から西武書籍館に移った商品部に異動となる。このころ婦人雑貨部長は渡辺靖彦氏が有楽町店長に赴任し、斉藤均司に代わった。商品部で斉藤氏はハンドバッグを中心に扱い、当時ファションフロア以外に婦人雑貨フロアでも展開していたDKNYのアクセサリー、雑貨をDKNYジャパンの担当者と一緒にニューヨークに買付に行っていた。当時DKNY雑貨をNY買付していたのは西武と伊勢丹だけであった。NYではケイトスペードなども買付していた。
また自主ブランドとしてSAKSも取り組んだ。CKカルバンの元社長でSAKSの副社長も経験されたアン・ボールさんと契約し、NYの百貨店SAKS Fifth Avenueの名を冠したショップを開発した。商品は100%買付商品の自主ブランド売場であったので、ナニワ倉庫で西武全22店に振分けデリバリーしていた。アン・ボールさんはお父上が元米軍人で日本の京都にもいた方で、バイタリティと気配りのある素晴らしい方だったが、既に故人となった。NYブランドに関わったあと、自分自身が98年にパリ駐在に行くことになった。
97年にパリの邦子役員が亡くなり、一旦西武フランスが閉鎖されメンバーも帰国したあと再度上田所長がその年に新たなパリ駐在所長として渡仏し、翌年メンバーとして自分も行くことになった。上田所長も既に故人となってしまった。当時のパリ駐在の斉藤氏の業務は、まずはマーケティング、新商材探し、百貨店やコレット等の話題のセレクトショップのレポート、そして婦人服自主開発売場で山本氏が担当していてアン・ボールさんも手伝っていた「パラグラフ」であり、これはパリだけでなく、ベルギーのアントワープやミラノでも買付したセレクト業態のアシストだった。また紳士では同じくセレクト型ショップのWDDで、故和田バイヤーが担当していた。これらは全店展開ではなく都心展開ショップだった。他に昔から続く西武のPBルイ・フェローの日本から来るライセンス生産商品のアプルーバルを取る業務や、西武セゾングループ企業だったヴァン・クリーフ・アンド・アーペルの出荷が毎月あったので、ヴァンドーム広場のVCA本社の輸出部門事務所で発注商品の確認、検品と梱包、木箱に入れて封印の上、航空便で出荷していた。他にもグループ会社のラコステやソニアリキエルの仕事もしていた。また年2回のパリコレの際に出張してくるバイヤーのためのチケット確保やホテルの手配、市価調、食事アテンドやパリ拠点でアントワープのデザイナーの所にもよく行った。エルメスジャポンはすでに別会社であったが、古いメンバーはエルメス社にも知人が多く、デュマ社長も健在だった。サンローラン・リブゴーシュもセゾングループ企業であったため、よく行き来していた。フランスで西武セゾンの名はよく知られていたため、新しいブランドのショーのチケットなどはいつでも手配できた。
2000年に帰国してからは婦人雑貨バイヤーに復職し、アクセサリー担当や企画担当も経験した。その後東戸塚に1年半、震災前の2010年に渋谷婦人雑貨に行って4年間勤務した。そしてまた池袋婦人雑貨で4年半。このころ1階西武線コンコースに化粧品売り場が拡張された。このころからインバウンド客の「爆買い」売上が大きくなり、百貨店売り上げの構造が変わり始めた。
いまや池袋店最年長社員になってしまったが、今も大切にしているのは、西武らしさとは、次の世代の柱になるようなものへいち早く取り組み続けてきたことだと思う。新しい変化をいち早く見つけてきて自分の店で扱うことこそが他社との違いであり、あとの世代の社員にも一番に取り組むというDNAだけは大切にしてほしいと思っている。下の写真は、パリ駐在時代にモンパルナス墓地でサルトル・ボーヴォワール夫妻の墓のそばに眠る堤邦子役員の墓参に行った際のもの。

