I7 元西武渋谷店家庭用品部「オーマイダイニング」、販売計画部新C館プロジェクト、本部商品開発部、本部業態開発部、本部営業政策部 吉留景子 (撮影日:2025/11/25)

吉留景子氏は1979年入社。渋谷店配属となり、ファッション中心の渋谷店が、当時は戦略的にライフスタイル志向でインテリア領域を強化し「オーマイ・ダイニング」や「バスデコール」売場が登場していた頃で、これからは住ライフの時代が来るという思いからインテリア領域を希望し配属された。ここで2.5年の現場キャリアを積む中で、主にキッチン関係の海外直輸入商品を担当した。当時は銅の寸胴鍋やエスカルゴ調理器具など見慣れないものが売場に出始めていた。日本にはまだ普及していなかった圧力鍋も「ラゴスティーナ」ブランドなどが出てきていた。また密封瓶が出始め大ヒットしたころであり、先日テレビでカメラマン篠山紀信氏のご子息で俳優の輝信氏が出演していて、彼の母で元人気歌手の南沙織さんが密封瓶を西武渋谷店で引き出物に選んで贈った時に接客したことを思い出した。当時、本部商品部から全店共通商品として設定した2個セットで2,000円の鍋を渋谷店でも売るようにと指示が来たが、渋谷店顧客層向きではなかったので、エスカレーター前の売場前面DP拠点に展示して、ほとんど売れないという実態データーを毎日の単品管理でとり、商品部にそれを提示して交渉し、結局渋谷店からは撤去させたこともあった。渋谷店は芸能人や外国人などの顧客も多く、アレッシーや英国製のやかんなどデザイン性の高い調理器具が求められていた。隣接する「バスデコール」売場もカラーパレットタオル展開など海外のライフスタイル提案の商品群が次々と登場していた。ランチョンマットなどもこのころから出始め、その後のテーブルコーディネート時代到来の先駆けだった。入社以来、本部の商品部バイヤーになりたかったが、この売場で2年半の経験後、次に1981年から渋谷店販売計画部の新C館プロジェクトに異動になった。当時「女の時代。」を標ぼうする西武百貨店は色々なキャンペーンを雑誌MOREやWithなどと連動した情報発信を行い時代の先端を行っていた。新C館とはA館、B館に次ぐ新たな館としてその後シードやロフトになる新館の総称であり、インテリア領域からこの部署に異動した自分と同じタイミングで紳士服飾部からこの販売計画部に異動して来たのが、後のフジ・メディア・ホールディングスの金光修前社長だった。

ここ新C館プロジェクトの仕事の多くは営業戦略部門であり、しだいに新C館はファッションのシード業態と雑貨のロフト業態という方向になり、自分はマーケティング担当として、当時先行デビューして人気業態だった渋谷東急ハンズの毎日の視察からの報告メモ作りと店内情報共有を図った。1984年5月には新C館プロジェクトは販売計画部から独立して渋谷パルコ内の西武劇場が借りていた渋谷ジャンジャンの地下にある、元は唐十郎の状況劇場の事務所だったところに引っ越した。そして1986年2月の雪の日に「シード」がオープンし、このあと「ロフト」の開店を待たずに5月に自分は本部商品開発部に異動となった。異動前には商品開発部と営業企画室と企画室から異動の打診を受けたが、当時の上司の渋谷店水野店長に相談したところ、女性のキャリア開発視点から商品開発部を勧められた。このころの商品開発部はマーケティングを行う商品政策担当とリアルなもの作りを行う商品開発担当があり、当時の本部では少ない初の女性マネージャーとして商品政策担当となった。担当常務は米谷常務で、その下に由良役員、後に石井甫役員がいて、その下に斉藤均司部長がいた。ここで5年程商品政策を担当したが、年間商品政策テーマ「LIFE AS ART」策定はこの頃の代表的な仕事で懐かしい。その後1991年3月に新たに業態開発部が発足し、ここをやることになった。商品開発というよりも、「シード」や「ロフト」のように1つの業態を作る時代になってきたからである。業態開発担当は自分と浅川氏の2名であった。このころの代表的な仕事に、渋谷に「シード」、「ロフト」に次ぐ新業態館の子供の専門館「パオ」開発の事務局長の業務があり、初代館長を女性の松村氏にやって貰った。

しかしこのころ関西では西武百貨店もからむイトマン事件が起こり、この余波で業態開発部は2年で廃部となってしまい、1993年にはここの部員は本部各部に異動となり、自分は浅川氏とともに営業政策部で平田役員、森川部長の下に異動した。このころから西武百貨店に復帰して西武百貨店白書を出した和田社長体制の下、全店を5類型に分けたシステム化視点による店舗構造改善活動と同時に社内体質改善を求められるようになり、私は全社行動指針策定業務も担当した。全社行動基準策定に加えて各領域の担当と連動して、本部、商品部、外商、店舗など領域別の行動基準も作り、これらを持ち歩ける小冊子にまとめ、さらに外部企業の事例を参考に毎朝唱和を行い社員に徹底するということにもなった。かつて西武渋谷店販売計画部在任中には、池袋店連合での新聞書籍枠広告「ピックアップ西武」という媒体制作も担当したが、このコピーを書いていたレマンのコピーライターの坂本氏が亡くなったため、これらをまとめた小冊子を作ったこともあったが、「女の時代」を予感しながらのわくわくしたこの頃の仕事と「行動指針策定」業務はあまりのギャップだった。そのようなわくわくした仕事はいずれ総括され、管理型体質化推進戦犯の一人として今後は扱われるのではとの懸念を抱きながらも、当時は、社員としてはその業務策定に従うしかなかった。

入社したころのキラキラした仕事も、営業政策部時代の仕事もそれぞれ意味はあったと思うが、たまたま母が倒れたため、実家の鹿児島と東京の往復をする必要がでてきた。このまま西武百貨店に残って当時の戦犯として自己批判して生き残るのも一つではあったが、その仕事は他の人でもできるのに対し、親の介護は自分にしかできない。また当時は介護休暇等の制度も西武百貨店には全くなかった。そこで、西武百貨店でバイヤーを目指すというキャリアは諦め西武百貨店を辞め、九州に戻る決断をした。

その直後、電通が地域会社を作る為に求人広告が新聞に出たので、電通九州に応募し採用され、西武百貨店退職半年後の1995年に入社した。百貨店とは違う領域のマーケティングの仕事が始まった。電通九州は鹿児島にも拠点があり、勤務先は福岡本社だったが、飛行機帰省の東京と比べて鹿児島までは電車で帰れた。2003年には電通九州の身分で東京電通に出向したりもした。電通九州では福岡本社や鹿児島支社でも勤務し、福岡の岩田屋百貨店の新館オープンの仕事も経験した。電通九州定年退職後は博多駅商業施設デベロッパー企業からお誘いいただき入社した。駅ビルの仕事は小売業の経験も広告会社の経験も活かすことができ、新たにデベロッパーの仕事の経験もできた。この駅ビルの仕事は営業責任者としての役員の仕事であり、7年勤務後の2023年に退任し、その後は何社かの顧問などをやっているが、本社は東京で全国55拠点を持つ九州資本の会社の社長の仕事が来たため、新年2026年からはこの仕事も始まる。新卒入社時の西武百貨店の「女の時代。」から始まって自分の礎を築いてくれたのは西武百貨店であったと思う。マーケティングや企画の基本を叩きこまれ、電通はある種の応用問題と思えた。電通九州での岩田屋新館オープンも西武百貨店の経験が使えたし、ハウステンボスの仕事も「衣・食・住・遊・休・知・美・健・安・交」の次の領域に「テーマパーク」が付いたと思えば西武の基礎の延長で考えることができた。先を見据えた仕事ができるようになったのは西武百貨店の経験が大きかったと今でも思っている。