J4 元㈱パルコ プロモーション局劇場部ほか、㈱マガジンハウス リラックス編集長ほか、(公財)東京都歴史文化財団 東京芸術劇場 事業企画課 ㈱シアターワークショップ 事業開発アドバイザー 立石和浩 立石和浩 (撮影日:2025/12/18)

立石和浩氏は1984年新卒で㈱パルコ入社。ストアオペレーション局営業企画で宇佐美昌一部長のもとテナント総会やシーズン営業催事等を担当していた。隣の部署には後にパルコ社長となった伊東勇氏もいた。松本パルコオープン準備でひと夏を松本で過ごした後、セールスプロモーション局に異動。同局では各種イベント催事やCCTV(館内テレビ放送)の100chTVなどを担当。渋谷パルコ店頭では漫画家デビューしたばかりのしりあがり寿氏の紙芝居や毛色の変わったところでは舞踏系のダンスパフォーマンスも行った。100chTVスタジオで一人芝居やアートイベントを手掛けるようになり、その流れでエンジンルームの榎本了壱氏のコーディネートによる如月小春氏のパフォーマンス公演に参加。この舞台はパルコパート3の8階にあったスペースパート3というキャパ290人ほどの多目的ホールで上演した。これをきっかけにパルコパート1の9階のキャパ458席のPARCO西武劇場(後のパルコ劇場)の公演制作に関わるようになった。まず最初に榎本氏と同じエンジンルームで雑誌ビックリハウスの初代編集長を務めた萩原朔美氏演出のロックミュージカル『HOSS』の制作助手からスタート。サム・シェパードの戯曲、建築家の石山修武氏の舞台美術、アーティスト日比野克彦氏が役者として出演するなど、いかにもパルコらしい座組であり、20代でこのような仕事に関われたことは良い体験となった。また憧れだった伊丹十三氏翻訳によるPARCO劇場公演『ピサロ』も思い出深い。山崎努氏と渡辺謙氏が共演した舞台は、その後35年の時を経て、新生パルコ劇場の杮落し公演として渡辺謙と宮沢氷魚によって再演された。世代が変わっても上演されるレパートリーとして、パルコ劇場のプロデュース力を示すものだった。

清水邦夫氏作、蜷川幸雄氏演出の『タンゴ・冬の終わりに』は、傑作ながら初演が不入りで、舞台装置となる古い映画館の椅子を廃棄してしまっていた。再演が決まって急遽映画館の座席を探すことになり、焼津の映画館が閉館するという情報を聞きつけて現地に赴き、約100席の座席を譲り受けることができた。焼津の映画館の館主がかつて占領軍の劇場であった有楽町のアーニー・パイルでピアノ弾きをしていたという話が聞けたのは、劇場の歴史を引き継ぐような思いがして忘れがたい経験だった。映画監督の五社英雄氏演出の『デストラップ 死の罠』は日下武史氏、萩原流行氏、李麗仙氏、塩島昭彦氏といった実力派俳優たちも出演していたが、今となっては皆さん故人となってしまい、時の流れを感じずにはいられない。この作品は自分で初めてポスターチラシのコピーを書いたのだが、周囲からの鬼の催促で随分と鍛えられた。劇場名が正式にPARCO劇場となってから以降は自社プロデュース公演が増えていくが、それ以前の西武劇場開業時は劇題四季や劇団民芸などの劇団と提携していた。パルコ劇場が演劇界で力をつけていくとエグゼクティブプロデューサーの増田通二氏が今でいう芸術監督だった。パルコ劇場は今でも芸術監督は置かず、常に社員が企画プロデューサーを担った。増田氏からは会議で中世とかシェイクスピアとかコンセプトだけが出されて、社員スタッフがそれを企画に練り上げていった。また劇場の他にもスペースを使ってパルコスーパースクールと銘打ったレクチャー企画も行った。『エイズとともにけなげに』というシンポジウム企画では中上健次氏や浅田彰氏などをパネラーに世紀末の病とも言われたエイズとどう生きるかを文化面から問うものであった。増田氏はこういう問題提起的な企画も認めてくれた。西武美術館での展覧会『現代演劇60年代~80年代』は、西武劇場時代のアートディレクター田中一光氏によるポスターをフィーチャーするなど、名だたるクリエーターが手がけた演劇の宣伝美術パワーが話題となった。寺山修司氏が「ポスターを貼ることから芝居が始まる」と語っていたように、街にポスターを貼ることも演劇的行為であり、街をステージ化することで街行く人も出演者の1人として巻き込んでいくパルコの戦略に連なっていった。こうした考え方は、堤氏も増田氏も寺山氏も唐氏も街の劇場化を狙う全てのクリエーターやマネージャーたちの共通認識だったと思う。

渋谷パルコパート1の1階には公園通りに面した喫茶店の「カフェ・ド・ラペ」があり、増田氏がある休日にカフェで公園通りを眺めながら企画を練っていると、そこにたまたま寺山修司氏が来て「増田さんは街の演出家だね」と言ったという。増田氏は終生そのエピソードを喜んでいた。増田氏の言葉である「劇的な人生こそ真実」。人生も仕事もドラマティックにカオスの中から取り掛かるものだということ。また増田氏は若者に向けた「サクセス・ストーリーづくり」を大切にし、JPC賞や日本グラフィック大賞など様々な公募企画を仕掛けていった。増田氏は幼少時、画家の父親が上野の美術館で公募展に応募する姿を見ていた。若者たちはまだオケラ(金欠)で高額なファッションには手が届かない。すぐにパルコの顧客にはならない若者もコンペやオーディションを通して成功を目指せばいつかはパルコの顧客になると増田氏は考えていた。こうした狙いから日比野克彦をはじめとしたカルチャーシーンのスターが生まれていった。パルコは劇場や出版や広告などあらゆる機能を結集したインキュベーターだったのだ。

増田通二氏は西武百貨店入社前の前職が高校の社会科教師であったこともあり、話し方も名調子で面白く、叱ると怖いが、基本的には人に教えるのが大好きだった。色々なユニークなキーワードを連発するが、頭の中では黒板に書くようなチャートがあってそれをもとに我々を指導していたのではないだろうか。榎本了壱氏の言う「増田学校」で我々も学びながら働いていた。増田氏は色々なコンセプトを分かりやすいキーワードにする言葉づくりも巧みだった。
そんな増田氏の代表的な考え方のひとつに東京の山の手と下町がセットになってマーケットやライフスタイルの重心が移動していく「第四山の手論」があり、そうした分析をパルコのマーケティング雑誌「アクロス」で編集長の三浦展氏を中心としたスタッフか詳細なリサーチの裏付けをして理論化していった。
自分は88年にパルコを退職し、マガジンハウスに転職した。ブルータスの下町特集では、下町論に詳しい増田通二氏へのインタビューページを提案し、実現した。在職中はパルコ劇場担当だったこともあって、増田会長の他劇場の観劇をアテンドした。その際に直接お話を伺う機会もあったが、むしろ退職後のほうが会社での上下関係に縛られることなく色々と話を伺う貴重な機会を得ることができた。2009年の増田氏三回忌に「増田通二の時代を語る 1969-1989」と題したイベントを行い、記念冊子を編集した。朝倉摂、小池一子、上野千鶴子、山口はるみ、福田陽一郎、萩原朔美、榎本了壱、藤原新也といった増田氏と所縁の各氏にもご寄稿いただいた。一方で社員から増田氏への思い出のコメントも掲載した。自分はセールスプロモーションや劇場など企画部門だったが、営業や開発、スペースプロダクト関係やMD関係の仕事をしていたパルコ社員からははまた異なる増田会長への見方があったことを改めて気づいた。

マガジンハウスを早期退職し2018年からまた劇場の世界に戻ることになった。今回は特に公共劇場を希望し、自分としては社会貢献に繋がればと思っていた。縁あって東京都歴史文化財団東京芸術劇場の契約職員となり、舞台制作やワークショップ、芸術祭制作、海外作品招聘、海外共同制作、社会共生事業、広報や制作宣伝、パンフレットや宣伝ツールの編集等に従事した。しかし2020年の新型コロナウイルスの感染拡大によって劇場は厳しい局面に見舞われて予定していた多くの公演が中止や延期となった。東京芸術劇場では舞踊も担当し、若手からベテランまで数々の企画の制作を準備していたが、多くがコロナ禍の影響で中止や延期が相次ぐ中で田中泯氏の公演はコロナ禍をかいくぐって何とか実現することができた。
思い出すのはパルコ在職時に増田さんのお供で初めて行ったのが中野富士見町のplanBでの舞踏公演だったこと。このスペースは田中泯氏が中心となって立ち上げ、拠点としたいた場所であった。増田氏は演劇だけでなくダンスや舞踏も観ていて「ファッションビルに関わるものはダンスの儚さを知っておくべき。だからダンスは観ておきなさい」と言った言葉が忘れられない。
それもあって自分なりにダンスを見続けてダンスコンペの審査もしたりした。そして東京芸術劇場では本格的にダンスを担当することになった。ダンスについてはセゾン文化財団も細やかに助成をしている。詩的であり、美的であり、音楽的であり、増田氏の言ったようにファッションとも絡むような様々な表現要素をもつ身体芸術であるダンスはセゾン文化と相性がよかったのではないかと思う。石岡瑛子氏は、「衣裳とは肉体による建築だ」とも言っていたし、実際に90年代にコンテンポラリーダンスが海外から続々来日していた頃、観客の多くはお洒落でファッションに敏感だった。

寺山修司氏が言っていた「街は劇場になりたがっている」という思いを、堤さんや増田さんが実際に形にした。そのコンセプトを今自分もまた受け継いで企画で活かしている。
渋谷の公園通りをステージにしていった増田氏は、かねてから渋谷駅は谷底でそこにデッキなどの構造物で「蓋をしてはいけない」と語っていたが、今や渋谷駅は高層ビルに取り囲まれていて、駅前からは公園通りも見えなくなってしまっている。増田氏はまた「雑踏からファッションは生まれない」とも語っていた。ターミナルの単なるトラフィック上を行き交うだけでなく、意志をもって坂道を上り、わざわざ赴く場所にファッションが生まれ、高感度な人々が最新モードを装うことが大切だと考えていた。パルコのメインの扉もあえて自動扉とせず、坂を上ってきて真鍮のドアノブを自分で押して扉を開き、パルコに入店するというストーリーを大切にしていた。この真鍮の楕円形ドアノブは建て替え後の今のパルコのドアの一部にも取り付けられている。建物のディテールにも気を配り、パルコ来店客が意志をもって自分自身を演出することが求めてられていた。

●1984年
4月 株式会社パルコ入社 ストアオペレーション(SO)局営業企画課配属。営業催事、イベント・キャンペーン、松本パルコ等新規出店準備等に関わる。
9月 セールスプロモーション(SP)局に異動 販促イベントの企画・制作に携わる。渋谷パルコ館内テレビ(CCTV)「パルコ100chTV」スタジオの番組企画とディレクションに関わる。
12月 一人芝居『カラカル』(エドワード・オルビー「動物園物語」より)制作 (演出・出演:鈴木一功)@パルコ100chTVスタジオ
12月『ササキ・クラブ・スペシャル』制作(構成・演出:佐々木勝俊、出演:中村ゆうじ、水島裕子、オナッターズほか)@パルコ100chTVスタジオ
●1985年
1月『満点劇場withしりあがり寿』企画・制作(紙芝居作画:しりあがり寿、出演:鈴木一功)@渋谷パルコ店頭及びパルコ100chTVスタジオ
3月『MORAL 2nd』共同制作(作・演出:如月小春、出演:常田景子、瀧川真澄ほか)@パルコスペースパート3 ここから主に舞台制作業務にシフトしていく。
5月『ロックミュージカル HOSS』制作補(作:サム・シェパード、演出:萩原朔美、出演:奥田瑛二、天宮良、日比野克彦ほか)@パルコ西武劇場
5月 『REM~夢見のプロセス』構成・演出(映像&アートワーク:角章、出演:阿部真澄)@パルコ100chTVスタジオ
7月『手塚治虫アニメーション・クロニクル』企画・制作(短編アニメ特集上映)@パルコスペースパート3
7月『ピサロ』制作補(作:ピーター・シェーファー、翻訳:伊丹十三、演出:テレンス・ナップ、出演:山崎努、渡辺謙、塩見三省ほか)@パルコ西武劇場
8月『デストラップ』制作補(作:アイラ・レヴィン、演出:五社英雄、出演:日下武史、萩原流行、李麗仙ほか)@パルコ劇場(ここより劇場名改称)
9月 コンテンポラリーアートイベント『ARTmixPOP(アトミックスポップ)』制作(構成:高橋寛ほか)@パルコ100chTVスタジオ
10月 クロスカルチャーイベント『円卓のパラダイム~香り空間と表現の邂逅』制作(構成:高藤由明、演出:吉武利文(きゃら香房)舞踊:古川あんず)@パルコ100chTVスタジオ
11月 コンテンポラリーアートイベント『狙われた日本庭園』制作(構成・美術:タダアキオ)@パルコ100chTVスタジオ
11月『大典礼』制作補(作・演出:フェルナンド・アラバール、出演:美輪明宏、若松武、西山水木、巻上公一ほか)@パルコスペースパート3
12月『ジョージ・ベイヤー映像展』制作 @パルコ100chTVスタジオ
そのほか100chTVではマガジンハウスの雑誌『鳩よ!』やTBSラジオ、ピースボート等とのコラボイベントも多数行った。ゲストに谷川俊太郎氏やねじめ正一氏など詩人、クリエーターが多数来場。
●1986年
1月~5月『パルコステージラボ』企画・制作(ワークショップ講師陣:如月小春(NOISE)、鴻上尚史(第三舞台)、川村毅(第三エロチカ)、蜷川幸雄(ニナガワ・スタジオ)、遠藤啄郎(横浜ボートシアター)ほか @パルコスーパースクール
2月『タンゴ・冬の終わりに』(再演)制作補(作:清水邦夫、演出:蜷川幸雄、出演:平幹二朗、名取裕子、松本典子ほか)@パルコ劇場
4月 SP局ステージプロモーション課所属となり、劇場制作がメイン業務となる。
5月 カンヌ映画祭視察(作品買付アシスタント)、ロンドン・ウエストエンド視察
6月『あめりかん・ばっふぁろー』制作(作:デヴィッド・マメット、演出・出演:石坂浩二、出演:目黒祐樹ほか)@パルコスペースパート3
7月 サム・シェパード・トリプルプレイ①『埋められた子供』②『トゥルー・ウエスト』③『フール・フォア・ラブ』制作(演出:ロジャー・パルバース①、西川信廣②、ポール・ジョイス③、出演:①納谷伍郎、清川虹子ほか ②ジョニー大倉、石田太郎ほか ③根津甚八、松居一代ほか)@パルコスペースパート3
8月 パルコプロデュース映画『ビリィ☆ザ☆キッドの新しい夜明け』製作委員会メンバー(監督:山川直人、出演:三上博史ほか)
10月 『コリオレイナス』制作(作・ウィリアム・シェイクスピア、翻訳:福田恒存、演出:高橋昌也、出演:山崎努、加藤治子ほか)@パルコ劇場
11月『ピアフ』制作(作:パム・ジェムス、演出:加来英治、出演:栗原小巻、団次朗ほか)@パルコ劇場
●1987年
3月第三エロチカ提携公演『フリークス』制作(作・演出:川村毅、出演:深浦加奈子、有薗芳記ほか)@パルコスペースパート3
4月『シャーロック・ホームズ探偵物語』制作(作:ポール・ジョバンニ、演出:五社英雄、出演:日下武史、藤真利子、塩島明彦、筧利夫ほか)@パルコ劇場
6月トークイベント『BEYOND AIDS~エイズとともにけなげに』企画・制作(パネラー:浅田彰、中上健次、柄谷行人、三浦雅士ほか)@パルコスーパースクール
6月『なぜか青春時代』制作(作:清水邦夫、演出:蜷川幸雄、出演:夏木マリ、松本典子、松重豊ほか)@パルコ劇場
7月ブリキの自発団提携公演『柔らかい肌』制作(作・演出:生田萬、出演:銀粉蝶、片桐はいりほか)@パルコスペースパート3
9月『やけたトタン屋根の上の猫』制作(作:テネシー・ウイリアムズ、演出:鵜山仁、出演:范 文雀、西岡徳馬、三田和代、内田朝雄ほか)@パルコ劇場
11月『リチャード三世』制作(作・ウィリアム・シェイクスピア、演出:高橋昌也、衣裳:ワダエミ、出演:山崎努、立石涼子ほか)@パルコ劇場
●1988年
2月『ロンリー・ハート』制作(作:ベス・ヘンリー、演出:西川信廣、出演:佐藤オリエ、熊谷真実、富沢亜古ほか)@パルコスペースパート3
3月『イエルマ』制作(作:フェデリコ・ガルシア・ロルカ、演出:渡辺浩子、出演:三田和代、草野大悟、立川三貴、友里千賀子ほか)@パルコスペースパート3
7月『夏の夜の夢』制作(作・ウィリアム・シェイクスピア、演出:テレンス・ナップ、出演:山崎努、高畑淳子、毬谷友子ほか)@パルコ劇場
8月『薔薇と棺桶』制作(作:ジョー・オートン、演出:鵜山仁、出演:峰さを理、村井国生、唐沢寿明、沖田浩之ほか)@パルコ劇場
9月『帝国エイズの逆襲』制作(作・演出:川村毅、出演:大谷亮介、篠井英介、深浦加奈子ほか)@パルコスペースパート3
11月M.M.M提携公演『SKIN departmix』制作(作・演出・出演:飴屋法水、出演:嶋田久作ほか)@パルコスペースパート3
●1989年
株式会社マガジンハウス入社 ブルータス編集部配属 イタリア特集、米西海岸インテリア特集、ドイツ特集、F1特集、映画特集、ブルータス座などを担当
●1992年 ポパイ週刊化に伴い、ポパイ編集部配属 橋本治エッセイ「新聞から遠く離れて」、インタビュー欄「FACE TO FACE」、カルチャーコラムなどを担当
★1993年 雑誌マンボウ(光文社)連載コラム『増田通二のVIRTUAL TOKYO』元パルコ会長・増田通二氏をホストに迎えた東京論シリーズの構成担当。(この時期に他媒体での増田氏の口述筆記ライターを務める)
●1995年 新雑誌編集部、ムック編集部配属
トラベルガイド版ガリバー担当、ロンドン・ガイドでは熊川哲也氏取材、パリ・ガイドではジンガロ取材。映画『水の旅人 侍KIDS』(監督・大林宣彦 主演・山崎努)パンフレット編集。
●1996年 新雑誌「楽」編集部配属 デスク
映画、演劇、美術、本、旅を中心とした総合文化誌、特集および東山紀之氏連載エッセイ、東山氏と熊川哲也氏初対談などを担当。恵比寿ガーデンシネマで読者向け定例映画上映会を担当。
●1998年 楽休刊に伴い、ブルータス編集部に配属 デスク担当 シャルロット・ペリアン特集、映画、建築・住宅特集などを担当。
●2000年 新雑誌「マッツ」編集部配属 副編集長 読者参加型カルチャー誌 創刊イベント下北沢ジャックではコンドルズをフィーチャー。ベトナム特集号などを担当。
●2002年 マッツ休刊に伴い、ブルータス編集部に配属 シニアエディター 六本木ヒルズ特集、ロンドン特集、外国人が案内する京都特集などを担当。
★2003年 トヨタ・コレオグラフィーアワード一次選考委員(受賞は黒田育世氏)、アップリンクギャラリーキュレーターコンペ選考委員(受賞は名和晃平氏)、パルコ劇場30周年記念本『プロデュース!』編集ブレーン(書名考案、原稿執筆)
●2004年 リラックス編集部配属 編集長
ダンス特集では金森穣in NYなどをフィーチャー、清川あさみ「美女採集」連載、坂本龍一コラム連載など。平和特集ではアウシュビッツを取材。
●2007年 リラックス休刊に伴い、クロワッサン編集部に配属 デスク オペラ小特集など担当(黒田恭一氏、朝倉摂氏、富士真奈美氏鼎談など)、スタイリスト原由美子氏連載担当。映画ステージ、カルチャー情報欄、人物インタビュー欄担当。増刊「男のクロワッサン」担当、全3号を刊行し「伊丹十三の食卓」などを企画。
★2010~13年 横浜ダンスコレクション選考委員(コンペティション2)を務める。受賞者に川村美紀子氏など。
●2015年 Hanako編集部配属 歌舞伎リレーコラムにて木ノ下歌舞伎・木ノ下裕一、小松成美、君野倫子各氏をフィーチャー。東京レジェンドスペース探訪記「東京クロニクル」にて自由劇場、VAN99ホール、原宿セントラルアパート、文化屋雑貨店、シネマライズ、セツモードセミナーなどを取り上げる。
●2016年 書籍編集部配属 瀬戸内寂聴『わたしの仏さまめぐり』、皇后陛下美智子さまの子守歌CDブック『おもひ子』、林真理子文庫シリーズなどの編集担当
●2017年12月 マガジンハウスを早期退職

●2018年
4月 財団法人東京都歴史文化財団 東京芸術劇場 事業企画課 企画担当係長 フェスティバル、舞踊担当
6月 TACTフェスティバル制作 ひびのこづえコスチュームのダンスパフォーマンス『WONDER WATER』、田中泯『場踊り』」、劇団コープス『ひつじ』、パリ・シャイヨー劇場招聘ダンス公演ブランカ・リー『SOLSTICE 夏至/冬至』
9月~10月 東京芸術祭2018芸劇オータムセレクションカミーユ・ボワテル『間 エチュード―MA étude』 @シアターイースト
バック・トゥ・バック・シアター『スモール・メタル・オブジェクツ』招聘協力 @西口公演特設会場
11月 芸劇dance 田中泯 ―オドリに惚れちゃって!― 「形の冒険」 @シアターイースト
12月 芸劇dance勅使川原三郎「月に憑かれたピエロ」「ロスト・イン・ダンス―抒情組曲―」@プレイハウス
●2019年
1月 芸劇danceワークショップ 北尾亘(Baobab)@シンフォニースペース
2月 芸劇dance Nibroll 『悲劇のヒロイン』 @シアターウエスト
5月 芸劇dance ローザス『A Love Supreme~至上の愛』 『我ら人生のただ中にあって/バッハ無伴奏チェロ組曲』 @プレイハウス
6月 国際交流基金アジアセンター『響きあうアジア2019』制作協力
『フィーバー・ルーム』 『プラータナー:憑依のポートレート』 『DANCE DANCE ASIA–Crossing the Movements 東京公演2019』 ほか
7月 芸劇dance イデビアン・クルー『幻想振動』@シアターイースト
7月 芸劇danceワークショップ発表公演 『東京ディグ/ライズ』 @シアターイースト
10月 東京芸術祭2019芸劇オータムセレクション
レッド・トーチ・シアター『三人姉妹』 @プレイハウス
デューダ・パイヴァ『BLIND』@シアターイースト
●2020年
1月 芸劇dance ダンス 田中泯 ―オドリに惚れちゃって!― 「形の冒険Ⅱ―ムカムカ版」@シアターイースト
2月より新型コロナウイルス感染拡大のため、招聘公演やフェスティバル企画、提携ダンス公演などの公演延期・中止が相次ぐ。
8月 芸劇dance workshop 2020
北尾亘(Baobab)ダンスワークショップ公演『東京ディグ/ライズ2』@シアターイースト
11月 TACT FESTIVAL2020 EX タクト・フェスティバル スピンオフ公演
伊藤キム×森下真樹『マキム!』 カラダとコエとオンガクと @プレイハウス
12月 芸劇danceダンス田中泯 『村のドン・キホーテ』 Yo! Don Quixote @プレイハウス
12月 芸劇dance Co.山田うん 『コスモス』 配信のみ
●2021年 ※6月より事業企画課 制作担当課長
8月 芸劇dance workshop 2021
北尾亘(Baobab)ダンスワークショップ『東京ディグ/ライズ ワンダーゼミ』
9月 東京芸術劇場×木ノ下歌舞伎配信レクチャーシリーズ
『歌舞伎ひらき街めぐり ~木ノ下裕一の古典で読み解く江戸⇄東京講座~』
10月 東京芸術祭2021 芸劇オータムセレクション
特別上映会 『太陽劇団シネマアンソロジー』@プレイハウス
●2022年
3月 芸劇dance サファリ・P 『砕かれた四月』 @シアターイースト
6月 芸劇dance Co.Ruri Mito 『ヘッダ・ガーブレル』 @シアターイースト
10月 東京芸術祭2022芸劇オータムセレクション
『スカーレット・プリンセス The Scarlet Princess』 @プレイハウス
10月 東京芸術祭2022芸劇オータムセレクション
『WORLD BEST PLAY VIEWING ワールド・ベスト・プレイ・ビューイング』 (上映会)
11月 東京芸術祭2022芸劇オータムセレクション『となり街の知らない踊り子』 @シアターイースト
12月 芸劇dance踊り部 田中泯 『外は、良寛。』@プレイハウス
●2023年
1月 芸劇dance ケダゴロ『ビコーズカズコーズ Because Kazcause』 @シアターイースト
3月 芸劇dance ワークショップ『未来の踊りのためのプログラム2022』
10 東京芸術祭 2023 芸劇オータムセレクション
太陽劇団(テアトル・デュ・ソレイユ) 『金夢島 L’ÎLE D’OR Kanemu-Jima』 @プレイハウス
※4月より 事業企画課 調整担当課長 ファンドレイジング、ブランディング、コンプライアンス、広報文書等校了責任者、ウェブサイトリニューアル準備担当
●2024年
株式会社シアターワークショップ入社 事業開発室アドバイザー

■増田さんの言葉 劇場編(立石取材・構成による未発表原稿)

●街と芝居のつくりかた

劇場というのは本来泥臭いもので、自分はむしろそこが気に入っている。芝居小屋は伝統的に悪場所のイメージで、大半の日本の芝居というのは、根っこでは未だ近代と結び付いていないところがある。伝統芸能となると、これは下町との結び付きの方が強いのだ。かつて芝居の世界では、山の手から下町へ「お勉強」しに行くというスタイルが長く続いていた。近代演劇の支持者は山の手に自分たちのベースが持てなかった。ある時は下町に古典を、またある時は新宿にサヨクを勉強しにいくといった状態だった。そんなことでは芝居小屋は決して活性化しないと思った。だから西武劇場も企業のイメージアップより、渋谷の新たな芝居小屋としてのイメージ造りを優先させたかった。ビルの9階にあっても、文字通り客が芝に居る、土の上で見物する、そう思わせないと芝居小屋は当たらない。戦後の新宿はストリップショーから実存主義演劇まで混在し、その流れの中で紀伊國屋書店がホールを作った。浅草がお上りさんのセンターとすれば、新宿はブルーカラーの集まる街に見えた。では渋谷はどんな街といえるか。

新宿が国鉄(現 JR)の街なら、渋谷は私鉄の街だ。そして新宿には早稲田が控えて学生中心の反権力カラーがあったのに対し、渋谷は目黒、世田谷を控えたサラリーマンカラーの街だった。だから渋谷は真面目で本屋が多かった。古本屋も20 軒ぐらいあって、かくいう自分もかつて道玄坂で古本の露店を広げていた。一方で終戦直後から渋谷には東宝砧撮影所から流れてきた映画人たちがたむろしていた。東宝争議のときは下北沢が労組の溜り場、アジトの街だった。また渋谷は映画館も多かった。当時、東急が映画館に力を入れていて、戦後の映画館の興収トップは渋谷だった。かように渋谷は映像派で新宿のようなライブ感に乏しく、知的な感じですましていた。新宿のナショナリズムに対して渋谷のインターナショナリズム、モダンを好むバタくさいポーズがそこにはあった。

戦後新宿の反権力ムードが終焉したのが 1968 年の新宿騒乱だった。フォーク集会も「ここは通路で広場ではない」と権力側から言われて、そこで新宿のエネルギーが衰え、シラけた学生たちの気持ちが新宿から離れた。それを見てライブ性が弱くても渋谷が盛り上がる確信が出てきた。その頃はデザイナー時代の始まりでハナエモリを池袋パルコに引っ張り、ファッションの旗印として掲げた。次の動きとしては、パルコをさらにかっこいいビルにしてテナントを誘致するということだ。そこで渋谷パルコでは文化をジョイントさせようと考えた。パルコ劇場のあるフロアには当初ボウリング場が予定されていた。最上階に劇場、その下にボウリング場があり、以下ファッション・テナントが入る。そうすれば坂の上の不便な立地でも駅から客が来るだろうと考えた。だが念のためもう少し考えを練ろうとヨーロッパに視察に出掛けた。そして帰ってきてみればボウリングは下火になっていた。そこで急遽構成を考え直したというわけだ。当時はテナントビルも駅前立地全盛の時代で、坂のある渋谷の動員力の弱さが悩みだった。そこに劇場があって果たして認知度が上がるかどうか。そこでタクシー運転手に聞いてみた。すると彼らから病院に並んで劇場がランドマークになるという答えが出てきて、劇場なら公共性もあって認知度は高いという理屈をつけられた。かくして渋谷パルコのオープンキャンペーンは劇場のオープンを優先して立地訴求を計った。劇場自体をパルコの宣伝ツールとして考えた。これはロケーション認知度向上のための有力な説得材料ともなった。場所の条件が悪いから劇場の価値観が上がって、逆に思い切って勝負に出ることができたのだ。

演劇的なテーマとファッションの関係でいうと、自分にとってファッションとは肉体的なもので、まず人に見せるということだ。うまく着こなせばイナセになる。デベロッパーの立場からいうと、パルコを着こなしの見せ場にする。街をステージとするのだ。そしてファッションビルの中にもステージ性をシンボライズした装置を置く。それが劇場だ。デパートの美術館だと投機や経済が絡んでコンサバティブとなりがちだが、芝居の世界では何の所有もない、ただただ消費する世界だ。その浪費を楽しむ姿勢がファッションへと結び付くのである。

芝居にはリッチはそぐわない。芝居はライブであり、消費するものだ。無駄金を使うことがファッションに繋がるのだが、もっと儚いものは、ひょっとしたらダンスかもしれない。いずれにしても芝居とかダンスの世界とパルコのファッション世界をリンクさせる。ファッションビジネスのスタイルとしては、だから赤字のイメージでもいい。それは若いというイメージにも繋がる。青春、ファッション、劇場、これらが三位一体となって消費の快楽を形作るのである。

さて一方で渋谷の隣の恵比寿ではテアトル・エコーが活躍していて、主宰の熊倉一雄が高校の後輩で芝居仲間だった。エコーの芝居が、何というか山の手の中間層を狙っているような気がして、後に西武劇場に呼び込むことにしたのである。この絡みで井上ひさしが登場することになったのだが、いずれにしても標準語文化の山の手が、自らのスタンダードとなる芝居をもたなければしようがない、よかろうと悪かろうと山の手の芝居を作ると強く決意していたのだ。サブカルチャーといわれようが、下らないといわれようが、現代に結び付くものなら、高尚とか、本格的とかこだわりを持たずに、何でもやってみようと思ったわけだ。小屋自体のテスト、リサーチの意味合いもあっていろんなレパートリーをかけたが、落語はうまく行かなかった。なぜかというと西武劇場のような傾斜では高座にならない。見下ろしていて笑えないからだと思った。人形劇も駄目だった。小さいものを大きく見せる小屋ではなかったのだ。逆に舞台から客席を見上げて歌うものはよかった。ミュージカルには向いているというわけだ。こうして劇場に見合うソフトを探す道がついてきたのだった。ともかく芝居は素直に当たりを取る。ただ当たりを意識しているように見せないことだ。メセナ型発想とか企業政策的なものが出てもいけない。無理なくハレの世界を作ることが大事なのだ。

公園通りも一種のステージであると見立てて戦略を練っていった。坂の傾斜の加減がとても良くて、直観的に有名なストリートになると感じた。当初通りのネーミングはローマ市と提携して、コンディッティ通りにしようと思ったが、これは立ち消え。一方でピエール・カルダンとも繋がりがあって、箔を付けるためにカルダン劇場という案も出たが、これも頓座。海外と絡んだイメージづくりはいろいろなプランが出たが、結局イタリア語でVIA PARCO(公園通り)として「すれちがう人が美しい、公園通り」でオープンを迎えた。見る見られる関係、劇場空間を意識した街作りで渋谷パルコを演出していったのだ。公園通りに面した一階の喫茶店カフェ・ド・ラペもそう。これはパリ、オペラ座の脇にあるカフェ。劇場と共にある喫茶店ということで、その名を見つけにパリまで行ったのだ。街のビビッドなシーンを映し、見る見られる関係を演出するもう一つの劇場、それがカフェだ。劇場とカフェがワンセットで成功すれば、渋谷パルコの成功は見えたようなものだった。

●プロ向けの情報発信の場づくりとは

ところで、本来の情報発信ということについて私見を述べたい。情報発信を仕組むとか、しつらえるというのは、実は素人考えである。プロというのは自らの足で情報の素材を探しに行くものだ。プロはその素材を集めて練り上げるのである。したがってプロ向けの情報発信とは情報のカオスの場を作ることなのだ。整理されたものは二次情報でしかない。ゆえに雑情報のセレクションの場にプロが集まるのだ。

劇場も複数成立を前提としないと、渋谷のみで情報は取れない。パルコだけが力んでも無理なのだ。ジァンジァンがあり、NHKホールがあり、東急の劇場があって、多情報が流れるように複数で構成されないと意味がないのだ。もちろんパルコ内でも複数化は進めた。パルコ劇場、スペースパート3、テイクオフ7、そしてクラブクアトロだ。

●渋谷の街の「サクセスストーリー」づくり。

パルコを核とした渋谷の街づくりに持ち込んだのはサクセスストーリーだ。サクセスは若さのイメージでもあり、その街にいったらサクセスを得られるというのは街の重要なモチベーションなのだ。NYもサクセス、パリもサクセスだ。サクセスを感じさせないと都市は盛り上がらない。都市のサクセスストーリー、それが魅力であり、パルコのプロモーション戦略のキーコンセプトはまさにそこにあったのだ。

劇場でも、とにかくヒーロー、ヒロインを作るようにした。当たり狂言を出して経済的に儲けるのではない。当てることでサクセスストーリーを作る。そういうふうに理解する。そしてもっと相乗効果を上げるために、日本グラフィック展、オブジェ展、オルガン坂大賞、ライブアワードなどいろんなジャンルのオーディションを連発、おおむねそれが成功した。日比野克彦といった才能も出てきた。このサクセスストーリー陽動作戦は、テナントのファッションビジネスにも食い込んでいった。売れるブランドが出てきたのだ。こうしてたくさんの花火があがるように、不自然でなく才能が出てきて刺激し合う。サクセスというドリームを掲げて、街づくりをも成功に導いたのだ。