K6 元西武百貨店営業企画室、電通北海道、NTT北海道、現日本ワイナリーアワード協議会代表理事、㈱UPC、デジタル・クライシス総合研究所 山本光子 (撮影日:2026/01/21)

山本光子氏は1986年に在籍していた日本リクルートセンターからの転職で入社した。当時のリクルートは広告営業が多かったので、自分はもっと実業をやりたいと思い転職した。実は新卒の時も西武には関心があった。当時の札幌には大卒女子の求人がなく、西武にも応募して残っていたが周囲の応募者はファッションも洗練されていたので気後れして、同じ北大から西武を受けて、途中で落ちていた周囲の同級生からも、西武はやめたほうが良いという声もあり西武は途中で撤退したので二度目の応募だった。最初は有楽町西武法人営業部だったが、やや自分の期待する西武の仕事とは違っていたので人事部に相談したら本部営業企画室を勧められ、海外催事の担当に異動した。自分の周囲には英国人男性やインド人女性もいたし、総合職女性も優秀な方々が多かったが、皆地方国公立大学出身者だった。インド人女性はインテリの富裕層女性だった。英国大使館内でのお花見イベントも開催した。当時はヨーロッパ諸国は日本に色々な商品の販路拡大を狙っていて、各国大使館と頻繁に行き来した。フランス大使館商務部の女性からは、夏の盛りに「堤さんの部下なら春夏はストッキングなど履かず、素足で働くべき」とのフランスらしい価値観を教えてくれた。いろいろな国から様々な価値観を学んだ。東ドイツ大使館の180cm位の女性たちとランチをしたら、昼から思いっきり大きな肉や野菜を食べ、ワインも沢山飲むすごいパワーを感じた。イベントや商品開発でもソニーの新商品FAX(オタックス)発表会などにも呼ばれていて、デビューしたてのSMAPが出てきて最前線の商品を紹介していた。「東京クリエイティブ」ではオリンパスOプロダクトが発表されたり、イトーキなども参加していた。当時はインターネット社会ではなかったので、重い資料を国会図書館から借りだしたりしていたので、これは出産に影響した。

当時は西武に居たので子供も産めたと思う。恐らく当時は世になかった企業内保育園である「星の子保育園」があって自分は朝8時から夜8時まで預けていた。ここには20代から60代まで各年代の保育士さんが揃っていて、モンテッソーリ理論で子供を育てていた。星の子は西武百貨店池袋店のそばにあった。しかし夜8時以降の打合せには子連れで行ったこともあった。その後北海道に転勤することが決まって夜の送別会は子連れで来るように言われ、神楽坂に3歳の娘と一緒に行ったのも覚えている。当時の西武の産休制度は9カ月以内ならそのまま元の職場に復職できる制度があった。自分は体調が整わず11.5カ月かかったが、当時の上司は会社に掛け合うから大丈夫だと言い出し、サテライトオフィス制度(今のリモートワーク)を認めるべきだという提案を役員会で提案してくれてもいた。経営者の堤清二氏はそういう考え方を大切にしていて、子連れや外国人なども歓迎する職場だった。堤清二氏は社会を変えようというアクティビスト、ライフスタイルを変えようという意志のある経営者だった。ここでは外国文化だけでなく日本文化にも多くのことを学ぶことができた。セゾン美術館で行われた「現代日本の陶芸展」も素晴らしかった。スポットライトの当て方も会場設営も傑出していた。今、色々な国の展覧会を見ても当時の西武の展示内容は凄かった。陶芸展の中心に大本教の出口王仁三郎の作品を持ってくるセンスは凄かった。担当者の吉目木邦彦氏のセンスは凄かったがそれを容認した経営者も凄かった。「堤さんを驚かせるにはこのくらいやらないといけない」という意識もあった。ここではニューズウィーク位は英文で読むのが普通であったり、セレブの子女社員たちは外商顧客並みの生活意識で、サラリーを全て自分の服に充てるような人もいた。そういう多様な人が同僚にいることもすごかった。白洲次郎の娘婿だった牧山常務はリバティ百貨店との提携の際には自分のペンでのサインにこだわったりしていた。ラルフローレン、ミッソーニ、アルマーニ、エルメスなどのブランドも実は西武が契約していたので社内セールもあった。

星の子保育園が3歳までしか見てくれなかったので、子供が3歳になると子育ての問題が起きた。当時住んでいた文京区小日向まで坂を登る送り迎えを誰かに頼むのは難しいということがわかり、親のいる札幌への異動を希望して、許してくれた。当時まだ五番舘西武で、㈱北海道西武という別会社は労働組合も別であり、自分以外の女性はすべて制服だった。最初は五番舘の社員の方々とのコミュニケーションは大変だったが、子供の関係で親しくなれた。札幌西武のレンガの建物は堤清二氏最後の開発物件ともいわれ、五番舘7階赤れんがホールで開催されたエルメス展は大行列で、1階から7階まで階段には大行列ができた。展覧会限定の透明ビニールのケリーバッグを欲しがっての大量動員になり、事故が起こったら大変なのでと会期中は全く気が抜けなかった。普通はファッションショーや物産展などを開催する会場だったところにエルメスが来たこともあり、札幌西武は注目のスポットになった。当時の札幌のメディア出稿ではJALと並び称される扱いとなり、他にもエジプト展など道立近代美術館並みの企画が五番舘赤れんがホールにどんどんやってきた。優れたホール設備があったので素晴らしいイベント会場になり、世界的な情報がいきなり札幌にやってきた。小説「成瀬あかりシリーズ」に書かれていた大津西武と同じことが札幌にも起きていた。店内の「酒蔵」や「OLD&NEW」も素晴らしかった。五番舘の時計台の鐘は札幌時計台の鐘とシンクロしていた。そういう色々な施設や売場をフル活用していた。これらが相まって札幌は東京と同じ文化環境に急速に成熟していったと思う。OLD&NEWに記者を呼んでの食前酒付きのレクは記者たちから喜ばれた。用意されていた素晴らしい環境によって仕事はしやすかった。店内に貼られた高感度なポスターも素晴らしいものばかりだった。押しつけではなく引きつける魅力があった。記者たちからは、販売会情報も知らせてほしいと言われるようになった。2009年の閉店後になって、あの札幌五番舘の地元で焼いたレンガや陶板は素晴らしかったので買い取りたいという人もいた。札幌ロフト開店の際の広報も担当したが、北海道内の全紙全局が取材に来てくれた。ロフト自体が「この手があったか」状態のエンタテーメントだったのはもちろんのこと、札幌西武があるA館とロフトのB館の間にある「仲通り」はのちに都市景観賞を受賞したほどだったし、札幌駅至近にある百貨店として、品格と楽しさが両立した素晴らしい館だったといまも思う。札幌という北の都の魅力の一端を担っていたのではないかとも感じる。

その後は東京に戻らないかという話もあったが子供の都合もあり、お誘いを受けドコモ北海道と電通北海道に行き、その後東京のぐるなびに来た。途中でも西武から声はかかったが、コロナになってぐるなびも退任して今はIT系とガストロノミーの仕事が中心。いま思い出すと、堤清二氏は、サンシャイン本部の頃はいつもエレベーター操作スイッチのそばにしか立たなかった。堤会長の顔を知らない若い新入社員は会長に平気で50階から上のフロアボタンを押すのを頼んでいて、堤会長はそれにハイハイと言って応じていて自分は48階会長室フロアで降りていた。電通北海道にいたころ、たまたま行きつけのワインバーに行ったら、奥の個室から堤さんが出てきて、自分を見つけた会長は「山本光子さん、なぜここにいるの?」とフルネームで声をかけてくれた。そして「僕は辻井喬として山口二郎さんとトークセッションをしてきたんだよ」と笑顔で言われた。すごい方だった。西武には女性社員に対してもお互いの能力をリスペクトする雰囲気があったことで、お互いの能力が掛け算になっていたと思う。たしかに堤さんのゴルバチョフ大統領、ライザ夫人歓迎レセプションの準備もしたが、よく覚えていてくれたと思う。営業企画には素晴らしい先輩や同僚がいたのが今の仕事にすべてが繋がってきた。子育てと仕事で余裕がない中、よく自分を成長させてくれたと今さらながらありがたく思う。