北尾知道氏は大学院で都市計画を学び、街づくりに力を入れていた西武百貨店に84年に入社。当時社内では拡・脱・超百貨店が合言葉で、本部営業政策部で毎年の暮らしの変化や環境変化を受けた年度テーマ策定や多角化事業提案に従事。現在渋谷タワーレコードになっている子供業態Pao館や有楽町2期、つかしん等に関わった。堤氏は子供といっても子供、こども、コドモのどれなのか、子供の残酷さをどう見るか、とかフィリップアリエスは読んだのかとか、深い洞察を要求していた。未完に終わったロクロク開発、お台場、MM21、恵比寿ビール等多くの再開発にも名乗りを上げた。堤氏は提案を通時軸と共時軸で考えろと指摘。街の歴史的経緯や他の街との比較で強みや弱みをどうすべきかの提案を求めた。文学的表現も多く、小手指西友の際には古戦場だった歴史から、そこに吹く風の色は何色かという問いさえあったという。自身は90年に百貨店からの出向のまま、WAVEやスポーツレジャーやリブロ等を統括する別会社のPISAに出向し、ワールドインポートマートのリボン館にも行った。91年に堤氏の引退宣言とグループの三幹事体制化があり、堤氏は外部業務に傾注するため銀座東貨ビルのセゾン文化財団の理事長室を本拠地とした。本人は堤氏の秘書役として93年~01年まで勤めた。この間金融機関とグループ各社との交渉も行ったが、銀行団はその後約束を反故にした。インターコンチネンタルを売却した際、堤氏は、今後規模は大きいが成熟と衰退が見込まれる小売業支えてきた人々を振り切ってまで成長業域のホテルレジャー旅行に軸足を移したり、小売との相乗効果を出すまでに至らず、中途半端な結果となったことを非常に残念がっていた。また百貨店は良品計画のようにリスクを取って商品開発しない「場所貸し」化した事を嘆いた。インキュベーターだった頃の百貨店は360度で考える事、つまり店頭、非店頭、物販、非物販視点を要求したり、百貨店は植物だから動けないので社員が外に出て動けといつも要求した。自身も若い頃から多くの有力者の懐に飛び込みビジネス拡大しグループを築いた人だったと語った。
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営業政策部 セゾンコーポレーション 秘書室長
北尾知道
(撮影日:2025/06/06)